愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ワルシャワ蜂起 1944(上・下巻)

 

f:id:pione1:20210219121602j:plainf:id:pione1:20210219121633j:plain

 第二次大戦は自由都市ダンツィヒのドイツへの編入要求と、ポーランド回廊を通過し、東プロイセンとドイツ本土を結ぶ治外法権道路建設の要求を強めたドイツに対し、ポーランド政府が要求を拒否。ここに大戦の火蓋は切って落とされたわけだが、両国の死者は何とドイツ軍6万人、ポーランド軍21万6千人、ソ連軍1万1千5百人と膨大な数で、たった5週間の戦いだっただけに、意外に簡単に済んだように思えていたが壮絶な戦争だったわけだ。

何しろポーランド軍は150万人からの軍隊を投入したとあるから、攻めるドイツ軍も必死だ。

この上・下巻を読み切るまでには、かなりの忍耐を要するが、ともあれ完読したので先ずは良かった。

当時の状況は、蜂起が1944年8月11日午後5時から始まり、イギリスの亡命ポーランド政府と、ワルシャワ国内軍司令部との意見が必ずしも一致していない。

結果的にこの作戦は失敗に終わったが、計画ではソヴィエト軍ワルシャワに入城する前に、いち早くポーランド軍部隊がワルシャワを制圧して、戦後の交渉を有利に進めようとする作戦だったが、諸外国が予想した通りの敗北してしまった。

ドイツは精鋭部隊を送り込み、ポーランド軍を殲滅してワルシャワを徹底破壊する作戦に出る。

対するソヴィエト軍ワルシャワ突入を前に、手前のヴィスワ川で全軍停止。

これはスターリンの陰謀で、ポーランド軍と協力してドイツ軍を打倒するのではなく、厄介なポーランド人を出来るだけ多くドイツ軍に殺してもらおうという腹づもり。

当初のドイツ軍はポーランド兵を見つけ次第殺すという残忍なやりかたで、一般市民も例外ではない。

それはソヴィエト軍も同じで、ポーランド共産党員でも捕まえては収容所送り。

然し、9月26日以降は蜂起軍に交戦権が認められ戦時捕虜の扱いを受けるはずだったが、それを無視してドイツ軍に殺され続けた。

戦時捕虜の扱いは重大で、当初、蜂起から1週間以内で民間人5万人を殺害したドイツ軍は、そもそもこの厄災をひき起こした匪賊の扱いなど、真面目に考える必要がないと思っていた。

然し、交戦権を持つ国内軍が正規軍の地位を認められたことで、戦時捕虜の扱いになったわけだ。

結果的に2か月以上続いた戦いは、白兵戦だっただけに双方の被害も甚大で、ポーランド国内軍は4万人の男女兵士の内、15000人が戦死。

一方のドイツ軍は戦死者10,000、行方不明者7,000、負傷者9,000人。これは、今後の対ソ戦にとってドイツ軍は手痛い打撃だったろう。

国内軍の敗北の原因は、ソ連軍の介入がなく、英米の支援も中途半端で、そもそも初めから負けると分かっていた戦いに挑んだ国内軍に責任があるとの見方もある。

赤軍ワルシャワに入城した時は、徹底的に破壊された街と、散乱する遺体だけになっていた。

大戦中、ポーランド国内に住んでいたユダヤ人とポーランド人ほど悲惨なものはあるまい。