愛に恋

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愛よ、愛 岡本かの子

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本書は散文というか何というか、短歌あり小説あり随筆ありと、編集者の方でかの子の死後、勝手に集約したのか分からないが、明治生まれの彼女の文体は多少読みづらいところもある。

然し、かなりの才能は伺える。

例えば精神病院の待合で見た光景をこのよう書いている。

 

先刻から、殊に私の眼をひいた一人の四十前後の男の患者がありました。日露戦争出征軍歌を、くりかえしくりかえし歌っては、庭を巡回して居ました。その一回目の起点が丁度私達の立って見て居る廊下の堅牢な硝子扉の前なのです。男は其処へ来る毎に直立して硝子扉越の私達を見上げ莞爾としては挙手の礼をしました。私達も黙って素直に礼を返してやりました。男はそれに満足しまた身を返して広い櫻庭を円形に歩きだすのでありました。軍歌は、幅の広いバスで、しかもところどころひどくかすれるのです、それは気のふれたひとの声の特徴だちとあとで聞きましたが、まことに悲痛に聞こえました。

 

まだ、続くのだが小説家に必要なものは観察力ですね。

それをどう表現するか、これが難しいわけで。

然し、これなどはまだ易しい情景描写だが夫婦の会話、つまり一平とかの子の遣り取りはさっぱり分らん。

 

一平

だから今じゃ一般の女性の外形上の言語や服装等の上には皮相な新し味は非常にあるけど、内容は昔のものが地べたにならされただけのもので外形ほどの新し味が内容に於いてはカルチベードされていないね。

かの子

一面から云えば非常にもの分かりいい新鮮らしい女性が多い様に見えるけれど、それは近代の女性に許されている可成の自由と、女性そのものの普遍化された新味から来る自負心とであって、内容そのものは真の創造や鬱勃たる熱情に乏しいと思います。近代の女性はなかなか功利的な所もあって兎角利害の打算の方が感情よりも先に立って利害得失を無視してどこまでも自分の感情を生かそうとする熱情の閃きは多くの場合に於いて見られないと思いますね。このことは恋愛などに於いても、つまりしっかりした芸術作品を持ったり他の事業でも真摯な地歩をかためている女性以外には装飾的な表皮(うわべ)感情は多くひらめかして居ても本質的な真面目な熱情や感情が浅薄です。或種の文学少女などことに。

 

いくら漫画家と小説家と雖も、こんな会話をするであろうか。

会話はこれだけではなく、哲学的な要素を孕みながら続いて行く。

だが、短歌ではこんな素晴らしい歌を披露している。

 

この世なるえにしふかくして母よ子と和みくらさんみじかきこの世を

桜ばないのち一ぱい咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

 

更に岡本一平論では氏をこう評する。

 

画などに対しても、氏は画面(えづら)そのものを愛すると同時に、その画家の伝記を知るということを非常に急ぎます。近頃の氏の傾向としては、西洋の宗教画家や東洋の高僧の遺墨などを当然愛好します。それも明るい貴族的なラファエルよりも素朴な単純なミレーを好み、理知的に円満なダビンチよりも、悲哀と破綻に終わったアンゼロを愛するという具合です。近代の人ではアンリ・ルッソーの画を座右にして居ます。

 

岡本一平論はまだまだ続くのだが夫の観察力に対しては、まるで魚をさばくように骨の髄までよく知っている。

そして・・・。

 

おもえば氷を水に溶く幾年月、その月日に涙こぼれる。

和服を着せれば幾日でもおとなしく和服を着ている。洋服を着せれば黙って洋服を着ている。この人はまるで阿呆のようだ。そのくせ私の着物にはいろいろと世話をやく。あらい柄のもを私が着さえすれば悦んでいる。ときには少女が着でもするような着物を買ってくる。わたしは訊く「どうしてこんなものを」この人は答える「うちには娘が無いからお前に着せる。でないと、うちには色彩がないから淋しい」

いくら忠告してもこの人がたった一つよこさないのがフランス製の西洋寝間着だ。

 

と書くが、変わっているのは一平ばかりではない。

かの子は一平との性交渉を断つと宣言し、学生と医師を家に連れ込み男三人と同居所帯を持つありえない夫婦として有名になったが、よくもまあ一平はそれで我慢できたものだ、かの子はそれを見越した上での「断セックス宣言」だったのか。 

 

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