現在、大阪の道頓堀川に掛かる戎橋あたりは道頓堀2丁目という地名になっているが、この橋の川に沿った南側一帯はかつて、九郎右衛門町と呼ばれ、大変な賑わいを見せた花街だったらしい。
その新戎橋の手前角に「出世地蔵尊」というお地蔵さんが祭られている。
江戸期に芸妓や俳優が出世を願ってお参りに来たことから、この名前が付いたらしいのだが、この地蔵尊を挟んだ南側に以前、福田家という旅館があった。
その跡地は、現在このように何の変哲もない商業ビルになっているが、以前から機会があったら探してみようと思っていた福田屋跡だ。
辺り一帯は昭和20年に戦災に遭い焦土と化した。
昭和2年3月1日、講演のため大阪を訪れていた芥川龍之介はこの福田屋に宿泊。
この日、芥川は谷崎潤一郎夫妻、佐藤春夫夫妻と連れ立って道頓堀の弁天座で文楽を見学。
その後、佐藤夫妻と谷崎の妻は帰ったが龍之介は谷崎に対して「一晩、話そう」と引き止め二人して福田屋に逗留。
翌朝、旅館の女将が船場の御寮人さんで大の芥川ファンの人が是非会いたいと言っているから、もう一晩泊まるようにと勧められたが、そんな女性に全く興味のない芥川はさっさと帰ろうとする。
車で大阪駅へ向かう道々、谷崎はしきりに芥川を口説いたとか。
そのときの様子は大谷晃一の「仮面の谷崎潤一郎」によるとこうなる。
谷崎「ねえ君、もう一度引き返してその婦人に会ってみる気はないですか」
芥川「少しばかばかしい気がするな」
その御寮人さんが福田家へ着いたのは、夕方の六時を回った頃。
現れた女性こそは運命の人、根津松子だった。
しかしそれは芥川にとっての運命ではなく谷崎にとっての運命だった。
戦時中、谷崎は発表の当てのないまま名作『細雪』を書いていたが、その物語の主人公となったのが谷崎3番目の妻となったこの松子である。
もしあの時、どうしてもと言って龍之介が帰っていたら『細雪』は書かれることはなかった。
当然、谷崎と松子の出会いも無い訳だから。
歴史とは不思議な縁(えにし)の巡り合わせがもたらした産物だ。
芥川はこの年自殺して、谷崎がこの日に連れていた妻は、後に佐藤春夫に嫁ぐ。
運命の出会いは講演の翌日だから昭和2年3月2日ということになる。
戦災で全てが焼き尽くされ、往時を偲ぶよすがは何処にもない。
因みに福田屋はその昔「堀江の茶屋」と呼ばれ、芥川のがこんな句を残している。
時雨るるや 堀江の茶屋に 客一人