愛に恋

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新生 (上・下巻) 島崎藤村

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島崎藤村作詞の「初恋」の中にこのような格調高い詩がある。
 
 楽しき恋の杯を 
 君が情けに酌みしかな
 
この詩の解釈は容易ではない。
例えばこれを“くちずけ”と訳したらどうだろうか!
 
それはともかく、島崎藤村という人は手に負えない老獪なエゴイストだという評価が定着しているのだろうか。
確かに藤村は酷かった。
他人の秘密を暴いて訴えられたり、恩人の性生活を作品化したり、とにかく親族や友人の醜聞を小説の題材に選び、同時代人にはかなり嫌われていた。
友人の田山花袋の臨終の席ではこんなことを訊いている。
 
「世を辞していく気分はどうかね」
 
それ程までに冷淡な人だったという証言が多々ある。
名作『破壊』誕生の裏では貧乏に窮して妻と3人の娘を次々に死なせている。
その結果、女中として手伝いに来ていた姪を孕ませ、自らはフランスに逃避行。
だが藤村はただでは起き上がらない。
あろうことかその顛末を小説として発表した。
それが『新生』というわけだ。
 
そうなっては俄然興味をそそられる。
既に絶版になっている問題の小説を探し出して読んでみた。
事実を知った上で読んでいるので、自ら作り出した醜聞を作品にして世に問う姿勢には疑義を感じずにいられない。
「いったい何を考えているんだ!」となる。
逆に同情評として舟橋聖一の言葉もある。
 
「藤村を道徳的観点から批判する人もある。然し、これは問題にならない。人間一生、七十年間の生活のうちに藤村程度の過失は有っても無きが如きものである」
 
 藤村と同じような艶福家には、藤村如きで騒ぐことはないと受け取ったらよいのか。
 
芸術家の倫理観は難しい。
 
スキャンダルが人物を作るという言葉があるが、藤村とはそういう人だったのだろうか。
然し、いくら醜聞にまみれていても藤村の書く詩には魅了される。
この『惜別の歌』は藤村の『若菜集』を再構成したものだが3番の詩に目を留める。
 
 君がさやけき 目のいろも
 君くれないの くちびるも
 君がみどりの 黒髪も
 またいつか見ん この別れ
 
 
この場合の“みどり”とは、新芽や若い枝を指した意で、新しく生まれた瑞々しいものの喩えで、同時代の人が詩人島崎藤村の才能をどう見ていたかは私には分からない。
陰険な白髪の偽善者というレッテルと格調高き詩想を練る藤村。
作家の生き様そのものを作品と捉えている見方では、同時代人の気苦労は見えぬということなのか。
 
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