三好達治がどれだけ偉大な詩人で教養人あったか、知人友人がそれぞれ賞賛して已まない、言ってみればそれに尽きる本だった。
しかし、私一人が蚊帳の外。
どうも文体が難く読みづらい。
これは石原八束氏の本書にも言えることで、一般には使わない漢字や見たこともない漢字にはルビをふってもらいたいものだ。
頻繁に出て来る難解な漢字が読めないばかりに、全体の意味を把握できなくなってしまう。
そういう意味では素人が手を出す本ではなかった。
事実、三好達治の詩は書評やコラムに載ることが少ないように思う。
著者も言っているが、現在では三好の詩集より中原中也の方が売れていると。
ただ三好の異色なところは詩人にしては珍しく職業軍人を目指したところではないか。
このような経歴は他の詩人で聞いたことがない。
三好達治は明治33年生まれ、大阪府立市岡高等学校を2年中退、大阪陸軍幼年学校に進み、陸軍予科士官学校を経て大正9年に陸軍士官学校に入校するも、翌10年晩夏の夜、仲間になんの相談もなく脱走して退校処分、その頃、家業が破産して父親は行方不明。
奇縁なのは二・二六で有名な西田税と同期で、かなり深い親交があったが、この脱走で西田の衝撃は計り知れないものの、二人の交流は途絶えた。
軍を免官になったたことは、後年の西田の運命を見ると良かったことになるのか。
大正11年、旧制第三高等学校(現京都大学総合人間学部)文科丙類(フランス語必須)に入学。
その後の文壇、詩壇での交友関係は実に幅広い。
昭和2年の夏、湯ヶ島に梶井基次郎を見舞った時に、萩原朔太郎、広津和郎、尾崎士郎、宇野千代が集まって大変な賑わいだったと淀野隆三という人が書いているが、同じころの芥川の自殺に関しては何らそれに関して話が出てこないのはどういうわけだ。
三好と病弱の梶井の仲は相当なもので、何が原因かは分らぬが、梶井が三好の手の甲にタバコを押し付け、それを三好がじっと我慢する場面があるが、この話は何か違う本でも読んだことがある。
ところで著者は直に三好達治を知る人で萩原朔太郎の妹、萩原アイと三好の婚約問題は、梶井と宇野千代を巡った争っていたのを諦め、アイと婚約することによって、宇野を梶井に譲ったらしく、その問題を初めて書いたのが著者ということになるらしい。
然し実際は昭和3年3月、東京帝国大学を卒業し、萩原家にアイと一緒になりたいと申し込んだが、文士という無収入は朔太郎ひとりで充分だという理由で断られてしまった。
その後の三好は詩作はもちろん、自慢のフランス語をフルに活用し翻訳業などで自活の道を探り、文壇でそれなりの地位を得る。
がしかし、先にも書いたが誰もが認める天才三好の詩より中原中也の方が売れている。
確かに。
個人的には、1に萩原朔太郎、2に西條八十、3に佐藤春夫、4に室生犀星で、5に島崎藤村、6に北原白秋で三好達治は出て来ない。
朧で消えそな後ろ姿を追いかけたい、そういうものが私には感じられない。
三好の詩は難しい漢字を使い過ぎ、硬質で現代人には深層を表す表現として適当とは思えない。
明治、大正の教養人なればこその詩歌ではないかと思う。
つまり私に教養がないだけの話だが。
昭和8年、大阪西淀川区大和田町に帰省とあるが、意外と近い所に住んでいたわけか。
5月、友人の桑原氏に誘われて奈良の志賀家を訪れ、夫人に手料理を振舞われたとあるが、まさにこの部屋ではないか。
窓から下を見下ろすと小さいながら日本庭園がある。
数年前、やっと念願叶って志賀邸に訪れた時に撮った写真。
当時の交友関係を見ると、今は書店の棚に並ぶ人ばかり。
『四季』の総会にあたって同人29名が集まるのだが、このメンバーも凄い。
三好以下、井伏鱒二、萩原朔太郎、堀辰雄、立原道造、丸山薫、中原中也、室生犀星等。
因みに病弱の立原を虐める中原は三好にいつも怒鳴られたとある。
ところで合縁奇縁というが萩原の妹アイは、その後、詩人の佐藤惣之助と結婚していたが、朔太郎の死後2日後に急死してしまった。
その朔太郎の葬儀の席上、10年ぶりに三好と再会しアイは結婚することになたが、これまた数年後の離婚。
離婚の真相に関してはこれまた別の話なので書かない。
最後に、三好が愛誦して時に口にっしていた七絶、晩唐大暦の詩人司空曙と言われる人の作を。
万事傷心目前に在り
一身憔悴花に対して眠る