愛に恋

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朔太郎とおだまきの花 萩原葉子

 
「天才ゆえの傲慢は許容する、というのが、まず文明社会の不文律なのである」
 
と言った人がいるが朔太郎は自分のことをこのように言っている。
 
「不遇な季節はずれの天才」
 
この本は簡単に言えば、萩原家が崩壊していく様を長女萩原葉子が比較的簡略化して描いた作品で、葉子が言うには父の不幸は、この世に詩人として生まれてきたにも関わらず、開業医の長男として重責を背負わされたこと
に原因があると断言している。
 
虚弱体質で神経質、感受性が強く裸電球を抱えて生きているような人だったと。
朔太郎が幼い頃、父が行う人体解剖を間近で見て以来、医者になることへの恐怖心を抱いたらしい。
待望の長男とあって、将来萩原病院を継ぐはずべき総領息子が、医学になんの興味も示さず、東京に出てマンドリンを習いたいと言い出したから大変。
 
親が怒るのも当たり前で、朔太郎としては腕を磨いてマンドリニストになれば、親も諦めてくれるかもしれないという淡い期待があった。
しかし、父は高等学校に進まないのなら「お前の命はない」とまで脅し、仕方なく熊本の高校に入学するが、与謝野晶子の『みだれ髪』に感動し、退学した後は啄木の『一握の砂』に触発され、文学の道に目覚めていく。
大正2年、白秋主催の『朱欒』に投稿、文壇デビューの足掛かりを掴むと、母に借金して初の詩集『月に吠える』を出版。
 
「おかげさまで、これを出すことが出来ました」
 
と、直立不動で父に『月に吠える』を差し出すと、一瞥して庭で焼くように命じられたとか。
詩人としての朔太郎と医者の父。
当時にあっては文学など道楽者のやること。
所詮、許されるはずもなく朔太郎の憔悴も募るばかり。
 
だが詩壇にあっては、
 
「これまでの七五調の詩や形に制約されていた詩の殻を破って自由口語詩を生んだ詩人」
 
として大きな話題になっていた。
しかし、業を煮やした父親に否が応でも見合をさせられ、経済的な仕送りをするかわりに無理な結婚を強要される。
それが悲劇の始まりとなった。
 
朔太郎は初夜が怖くて家に帰らず、1年半も夫婦の交わりは無かった。
仕事も何をしているか定かではなく、その後、生まれた子供二人はどちらも女の子で、姑、小姑に苛められ肩身の狭い幼少時代を送ったと葉子は言っている。
 
宇野千代も書いていたが、ダンスを習いに行っていた朔太郎は「お前が代わりに行ってくれ」と妻に言ったのが運の尽き。
レッスンで知り合った10歳ばかり年下の男と親密な関係になり、家に連れ込んで子供の見ている前で何だって。
 
約束どおり生活費は親の援助で賄っていたが、何処で何をしているか分からない朔太郎に嫌気がさし、娘二人を萩原家に送り返して妻は出奔。
朔太郎は親友の犀星と飲んだくれていたのか、送り返された子供二人は、山に捨てて来いだの川に沈めるだのと食事も与えられない日々が続いたとある。
 
犀星と意気投合したのも解るような気がするが、天才にありがちな協調性のなさや、家庭人としての堕落はどう理解したらよい。
親、兄弟縁者が露骨に怒るのも無理からぬこと。
以前、池田満寿夫ゴッホについて、
 
「友達として付き合うのはどうかと思う」
 
と言っていたが、例えば中原中也青木繁石川啄木、朔太郎と私人として接していたなら私の反応は果たしてどうだったろうか?
ただ、宇野千代も言っている通り、あれほどの天才的な詩人も珍しい。
幸いなのは、こんな父を持った葉子の文章に恨み言などなかったことが嬉しい。
筆まめだった朔太郎が最後に投函したハガキにはこのように書かれていた。
 
「病ひ癒えぬ枕辺に七日咲きしをだまきの花」
 
しかし、朔太郎にはどうしてあのように笑顔がないのか。
いや、勿論笑う事だってあるだろう。
沈鬱と孤独、彼の横顔を見ているとそのイメージしか湧いてこない。
饒舌で明るく人を笑わせるのが好きだった、なんていうものは微塵も感じられない。
 
犀星は言う。
 
「萩原と私の関係は、私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった。例の前橋訪問以来四十年というものは、二人は寄ると夕方からがぶっと酒をあおり、またがぶっと酒を呑み、あとはちびりちびりと呑んで永い四十年間倦(あ)きることがなかった」

因みにこの本は、最後の挿入原稿1枚をファックスで送ってから、ひと月も経たぬうちに萩原葉子さんは他界されたそうだ
 
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