沖縄の地に初めて足を踏み入れたのは2001年の梅雨時だった。
どうしても見ておきたい場所があるので是が非でもという思いで出かけ、飛行場からホテルに直行、チェックイン後に即タクシーに乗り込み。
「どちらまで」
「海軍司令部壕へ」
沖縄の海軍司令官だった大田実少将の最期の地をこの目で確認したかった。
大田少将について書かれた本はそれほど多く出版されていないが、有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」に関するこの本を読んで一層思いが募った。
写真は私が写したので少し分かり難いが、この部屋で幕僚たちは手榴弾自決したらしい。
壁には当時出来た破片の痕が今も生々しく記憶を留めている。
右側が白いのは手前の壁で、部屋の中に入れないので通路から写したらこうなった。
6月23日が組織だった戦闘が終わった日で、これは沖縄守備隊玉砕を意味し、第三十二軍司令官牛島中将が自決した日でもある。
牛島中将の自決場所にも行ってみたかったが、どういう訳かタクシーの運転手が行ってくれなかった。
ともあれ壕内を見学中、アメリカ人観光客とすれ違ったが、さすがにこの日ばかりは複雑な気がした。
大田少将の自決は陸軍側より10日ばかり早い13日だが、自決を前にして牛島中将と大田少将の電文の遣り取りにはさすがに身につまされる。
そして世に有名なこの電文が海軍次官に打たれたのは6月6日。
ここに前文を記す。
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
他に、いろいろ戦跡を巡ってみたが、あの激しい艦砲射撃や地上戦の激しさを見ていると、私だったらそれに堪え得る精神力を持ち合わせているか甚だ疑問だ。
後世に語り継ぎ風化させぬことが第一、それにはしっかり事実を勉強しないと。