本来、戦争文学は自らの体験を語るのが王道だろう。
例えば大岡昇平の『レイテ戦記』などはその最たるものだ。
また、吉村昭、野間宏、大西巨人、古山高麗雄と戦前に生まれた人の体験は貴重なものだが、今やそれらの人は死滅して後を継ぐ者は戦後第一世代となっている。
先日読んだ村上春樹も浅田次郎もその世代で、村上の場合は南京戦に参加したかも知れない父のことがなかなか書けなかったと言っていた。
実は浅田次郎よりかなり年下の私も戦後第一世代に属する。
何度も書いて来たが支那事変以降八年も戦って来た我が父は、幼い私を捕まえ夜な夜な日中戦争従軍記を語るのが好きだった。
併し、実際に戦争を体験せずに浅田次郎のように帰還者の心情を語るのは、作家に必要な洞察力の賜物だろう。
男の私が女性の出産を、女になったつもりで書く難しさのようなものだ。
先の戦争は読めば読むほど、知れば知るほど、その開戦の衝撃と開闢以来未曾有の敗戦は断腸の思いなどという生易しいものではない。
畑中少佐などが立案したクーデターでは阿南陸相、田中静壱東部軍管区司令官、森近衛師団長ら三人の決起同意書を必要としていたが、阿南陸相割腹自決、森師団長惨殺、田中東部軍管区司令官自決と三人とも死んでしまった。
廃墟の中に帰還した日本兵、飢餓で苦しむ日本兵、それは現在のウクライナよりも遥かに過激で凄惨な体験だっただろう。
中でも印象的だったのは、人肉を喰うという人間としてあるまじき行為に出た兵隊を上官が射殺する場面。
「軍命令により、人倫に悖る行為を処断する。命令は知っていたな」
飢えのためとはいえ、同僚の肉を喰うおぞましい所業、私には何とも言えない。
作家として懊悩し、事実を咀嚼した上で吐き出した戦争体験記、震災を風化させないもいいが、310万の犠牲を払った大戦は風化してしまったようだ。
戦争を体験しない者が、極限状態に立たされた兵士の心情を如何にえぐるか、浅田次郎は、それに迫りうる作家だと思う。