愛に恋

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ハリス 日本滞在記 下

 
苦心惨憺読了、どうもこの本は学術的色合いが強い日記で一般向けではない。
しかし、そこはそれなり、ハリスが洞察する日本の国状や人となりは理解できたと思う。
さしずめハリスの観察はと言うと、一見、幸福そうに暮らしている庶民を見て!
 
私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。
 
そこなんですよね!
よく、気付いてくれた。
太平の眠りから覚め、日本を待っていたのは攘夷派と佐幕派の熾烈な争い。
近代日本へ向かう試練としては余りにも大きな代償だった。
 
ところでハリスは徳川幕藩体制というものを少しずつ理解していたようだが、初期の段階ではミカドに対する存在認識が間違っていた。
宗教的法王のような存在と了解し、故に政治的な決定権は何も持たず条約批准には何ら関係ないと思っていたがようだ。
それ故、条約締結が遅々として進まない原因が理解できず、強硬措置として江戸出府に拘り続け、直接、大君に大統領親書を手渡すと言いはり、その度に奉行が江戸まで徒歩で往復、これでは日数が掛かってしょうがない。
結果的に大君に謁見し、親書を渡すことは出来たが条約批准には思わぬ難問が。
最高権力者である将軍が条約調印を出来ない!
老中は言う。
 
幕府はすべての重大事件を大名に諮らなければならない。
もし、幕府が諸大名の意見に反して重大事件を処理しようとすれば「騒擾」すなわち謀叛を引き起こすだろう。
それ故、幕府は諸大名の意見に従わなければならない。
 
最高決定機関が独断で調印できない、ここに来てハリスの目算は大きく狂う。
大名、武士階級がそれに異を唱えていると。
更に!
 
何故に彼らが江戸を開くことよりも大坂を開くことに、これほど大きな反対をするのか了解することができないと、彼らに告げた。
 
ハリスとしては不可解なことだろう。
大坂はあまりにも京都に近すぎ、朝廷を刺激することを何よりも恐れる幕閣とハリスの認識は大きく食い違ってい、更に京都を開けば必ず反乱が起き絶対に認められないとハリスに詰め寄る。
ハリスは書く。
 
ここで彼らは非常に感情的な言葉を吐いた。
彼らは、もし諸外国が日本人と戦端を開くなら、我々日本人は災禍に対処して出来うる限り最善の努力をしなければならなぬが、如何なる場合でも外国との戦争は、国内の争乱ほど恐るべきものではないと言ったのである。
 
これを読むと幕府が如何に内乱を恐れていたかがよく解る。
徳川幕藩体制の屋台骨を揺るがすようなことは断じて認められないという強い意志。
1858年2月17日の日記。
 
今月11日に条約を有りのまま諸大名に提示したところ、城内忽ち大騒ぎとなる。
若干の最も過激な分子は、かかる大きな変革の行われるのを許す前に、自分の生命を犠牲にするだろうと言明した。閣老会議は断えずこられの人々の啓蒙に努め、単なる政策に止まらず、王土の滅亡を避けんとすれば、この条約の締結は止むを得ないものであることを、彼らに指摘してきた。
 
更に!
 
流血の惨を見ることなしに、今直ちにこの条約に調印することが出来ない状態にあると。
 
そして出された結論が。
 
閣老会議の一員が京都の「精神的皇帝への特使」として赴いて、皇帝の認可を得ることができるまで、彼らが条約の調印を延期しようと浴していること。
その認可があり次第、大名たちは反対を撤回するに相違ないこと。
彼らは条約の内容をそのまま受け入れ、ただ若干の些細な辞句の変更を申し出るだけで満足し、特使が都から戻り次第、条約を実施するという彼らの約束を厳粛に誓うこと。それには二か月を要することを知った。
 
だがハリスは念を押す。
 
もしミカドが承認を拒むなら、諸君はどうするつもりか訊ねた。
彼らは直ぐに、そして断固たる態度で、幕府はミカドから如何なる反対をも受け付けぬことに決定していると答えた。私は、単に儀式だけと思われることのために、条約を延期する必要がどこにあるか問うた。彼らは、この厳粛な儀式そのものに価値があるのだと答えた。
 
そして!
 
ミカドの決定が最後のものとなって、あらゆる物議が直ちに治まるであろうというのであった。
 
この大任を担って京都に赴いたのは老中首座堀田備中守。
因みに朝廷と武家の橋渡しをする役目の者を武家伝奏(てんそう)というが堀田は思いのほか朝廷工作に苦慮。
そして下された朝廷からの決定事項は。
 
条約勅許の件は改めて徳川三家以下諸大名の意見を徴した上で再び申請すべし。
 
というつれないもので、ここにおいて、ハリスと幕府との間に約定された条約調印の問題は全く暗礁に乗り上げ、堀田は滞京60日間、条理を尽くした陳弁もその甲斐なく失意のうちに江戸に戻る。
つまり、幕閣の考えでは幕府創設以来、朝廷との関係は上意下達で政治向きなことに口を出さないのが長い間の習わしだった。
ところが勅許は下りず、岐路に付いた堀田を待ていたものは井伊直弼大老就任。
ともあれ堀田は江戸に戻り、ハリスを自邸に招き条約締結の延期を願い出る。
対するハリスは延期の期間を訊ねるが、それには答えない堀田に対して。
 
幕府に条約締結の実験がないならば、自ら京都へ行って談判すると息巻いた。
 
ところでハリス日記だが1858年2月27日に発病したとある。
病名は腸チフスで危篤状態が数週間続き、驚いた幕府は長崎でオランダ医学を修めた最も有名な医師二名を送り、強制的な回復を命じ、もしハリスの生命を取りとめられない場合は、切腹をして申し開きをするようにという極めて無理な注文さえ発した。
そんなご無体な!
その後の記述は病気回復後の断片的なメモのようなものになっているらしい。
 
さてと、大老井伊直弼だが堀田と違って心からの開国論者ではなく、むしろ鎖国的な見解を持っていたが条約否定論者の鼻先だけの強がりには与せず、従って外国と戦端を開いて幕府の基礎や国土の存立を危うくすることには絶対反対であったが、ここに突然、条約の調印を促進するような事態が持ち上がった。
 
6月13日、合衆国の汽船ミシシッピー号が最新の情報をハリスに齎す。
イギリスが既にインドの反乱を鎮定しイギリスとフランスの連合軍はシナを完全に屈服させ、その余勢に乗じて連合の大艦隊を編成し日本に向けて航行しつつあり、ロシアの艦隊もこれに続くと報じた。
翌14日、ハリスはこの情報を堀田に急報。
狼狽した幕府は井上信濃守と岩瀬肥後守をハリスの下に派遣。
 
約束の期日前に調印することは国内の事情により不可能
 
と弁明。
これに対してハリスは!
 
私は約束以外の何ものをも求めない。私は危急を諸君に知らせ、これに対処すべき最良の方法について忠言を与えるだけだ。諸君は私の忠告を無用とするならば、私は下田に帰って、おもむろに調印の時期を待つより外に仕方がない
 
拠って起こる戦火と不幸を回避するか否かは幕閣次第だと言っている。
この場に至っても逡巡、引き延ばしを望んでいた大老も遂に窮し。
 
萬止むを得ない場合は、勅許を待たずして調印するも致方なし
 
との言質を与え、1858年7月29日(安政五年六月十九日)午後三時にポーハンター号の艦上で調印は執り行われた。
しかし、ハリスの日記は58年6月9日の断片的な記事を以て終わり、その後のものは現在発見されていない。
帰国に際して閣老の安藤対馬守はハリスを招いてこのように言っている。
 
貴下の偉大な功績に対しては何をもって報ゆべきか。これに足るものは、ただ富士さんあるのみ
 
と、ハリスのこれまでの尽力に対し多大な感謝を述べている。
因みにハリスは帰国後も独身を通し、晩年は質素な下宿住まいで1878年2月25日、74歳で亡くなった。
幕末の血生臭い動乱、大老や通訳ヒュースケンの暗殺についての記述がないことは残念で、政局はここからが面白くなるのだが。
大老は条約締結、将軍継嗣問題と悩まされ安政の大獄と移っていく。
今にして思えば違勅調印は避けて通れないもので、徒に攘夷を振りかざすだけでは何も解決出来なかったと思うが。
 
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