愛に恋

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慶喜のカリスマ 野口 武彦

小学校の頃に「赤穂浪士」を知ってから、ついぞ判官びいきに凝り固まった私は、義仲、長政、勝頼、光秀、三成、慶喜、西郷と敗者の側を応援すること、紙面で格闘するが如きだが、この中で唯一滅亡しなかったのが慶喜だ。タイトルが『慶喜のカリスマ』とあるように、いったいこの人物をどう捉えたらいいのか。父斉昭は精力が強く37人の子供を作ったが、多くは夭折し、成人した者は何人もいなかった。残った慶喜は幼いころから頭脳明晰で名将の器と期待されて育った。後に慶喜は26歳の首席老中、阿部伊勢守の斡旋で一橋家と養子縁組する。安政地震の7日後、阿部は抜き打ちで下総佐倉藩城主の堀田正睦備中守を老中首座の地位に迎え、ハト派の堀田をタカ派の斉昭と拮抗させる人事を敢行し、その備中守が本来幕府の専権事項だった日米和親条約の勅許を得るため、孝明天皇の叡慮伺いで上京して、これに失敗したことから、俄かに幕末の動乱は激しくなる。失意の備中守を江戸で待っていたのは、大老井伊直弼の登場で、備中守は即刻罷免。同時に幕閣を襲った将軍継嗣問題。紀州派か一橋派か、当時の紀州藩主家茂はまだ17歳ぐらいで現在では考えられない若さ。内憂外患の日本を背負っていく、十四代将軍に決まった家茂。慶喜将軍後見職で本当に大変だったと思う。孝明天皇の信任を得、一(一橋)会(会津)桑(桑名)、つまり一会桑のチームワークを作り上げ、中央政界の発言権が急速に増していくなか、 八・十八の政変で敗退した長州勢と、水戸天狗党への対応でおおわらわ。第一次長州征伐の発令と蛤御門の戦い、第二次長州征伐、そんな中、将軍家茂が慶応二年七月二十日満20歳で薨去した。深い心労の末の孤独な死であったのだろう。しかし慶喜は次期将軍職を拒み続け、今の時代に将軍職というものが、目下の内外情勢に適合した統治形態であるかどうかという根本的な疑問に捉われている。八月二十日、とにかく徳川宗家の相続は承知したが、結局、征夷大将軍に叙任されたのは十二月五日のことで最後の将軍となった。だが、歴史の皮肉なのか一会桑にとっては致命的な出来事が起こった。二十五日の孝明天皇崩御、まだ満35歳の若さ。死因は天然痘と診断されたが、激しい苦しのはてに亡くなったので、他殺説も存在し議論となっている。あまりにもタイミングがよすぎるということだろう。若し、天皇が存命だったなら歴史は変わっていたはず。鳥羽伏見で負けた幕軍は大阪城に退き、慶喜は声涙ともに下る「最後の一兵まで」演説の直後、にわかに矢のような帰心がムラムラと起き、一陣の臆病風が卒然襟首を吹き抜けたと会津藩は恨み節のように書いている。慶喜という政治家には、頭脳明晰、言語明瞭、音吐朗々と三拍子揃ていながら、ただ一つ武将には不可欠な蛮勇、クソ度胸というものがなかった。榎本艦隊をふるに活用し、大阪城に篭り東軍に大阪城参集を呼びかけ、徹底抗戦を叫べば勝つチャンスは十分にあり、京都の公家たちを震え上がらせるにも夢ではなかったはず。大阪城は難攻不落で大砲も兵糧もたっぷりあり、城を見捨てるとは正気の沙汰ではなかった。江戸に逃げ帰った慶喜を見て勝海舟は、自分が軍艦を率いた戦力構想を開陳し勝算は充分にあったと言っている。慶喜には新政権の構想があったが、薩長慶喜に向けた敵意は激しく、この時点では命の保証がない以上、イチかバチか城を枕に闘うのが武士というものだろう。和宮や春嶽による嘆願も功を奏せず東征軍は江戸を目指して迫ってくる。薩摩の西郷は大西郷といわれるぐらいの人物で、決して嫌いではないが、ここは大一番、慶喜は西郷と雌雄を決して欲しかったな。慶喜による新政権か大久保による新政権か勝敗は五分と五分、決戦大阪城だったはずなのに。