愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

西郷隆盛の首を発見した男 大野敏明

 
政府軍が西郷ら数百人の立て篭もる城山に最後の総攻撃を仕掛けたのは明治10年9月24日午前4時。
既に西郷軍には、この日の総攻撃は通告されており日本史にも類例のみない悲痛な戦いの終焉が近づいていた。
そして戦闘開始、雨あられと銃弾が打ち込まれる中、谷を下って島津一門の屋敷前辺りに辿り着いた時、二発の銃弾を喰らって力尽きた西郷の有名な言葉が。
 
「晋どん、もうここらでよか」
「そいごわすか」
 
駕籠を下りた西郷は空を仰いで手を合わせ切腹
別府晋介の一声!
 
「ご免なったもんし」
 
晋介が介錯をした西郷の首は、従僕によって敵方に見つからないよう何処かへ持ち去られた。
官軍側は人望第一と言われる西郷が死んだということを広く国民に知らせるため、是が非でも首魁西郷の首を捜す必要があった。
以前から言われていた、首の発見者が千田登文(のりふみ)陸軍中尉だったことが、千田家に残されたていた和紙、約100枚の履歴に西郷の首発見の記述があり、これにより長い論争に終止符が打たれた。 
 
墨痕鮮やかに書かれた履歴書を読み解くのにかなりの日数を要したと著者は言っているが読み手のこちらは、それを現代表記ではなく原文のまま読まなくてはならない。
発見の経緯はこのように書かれている。
 
「西郷ノ首ナキヲ以テ、登文ニ探索ヲ命ゼラル」「探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ、登文、首ヲ●(もたら)シテ、浄光明寺ニ到リ山県(有朋)参軍、曾我(祐準)少将ニ呈ス」
 
曾我少将は薩摩人であるから当然、西郷本人を知っていたと思われる。
遺体検案書の記述。
 
衣類、浅葱縞単衣 紺脚絆
創所 頭体離断 右大腿より左骨部貫通銃創、右尺骨部旧刀傷、陰嚢水槽
 
西郷の首を前にして山縣は、
 
「余を知る、翁にしくはなく、翁を知る、余にしくはない。しかるにいま・・・」
 
と言ってハラハラと泣き出したとある。
山縣は盟友同士の愚かな戦いに拠って多くの戦死者を出したことを嘆き西郷に同情していた。
薩摩人同士が敵味方に分かれて骨肉相食むの戦いになった悲劇。
何かの本で読んだが久しぶりに帰郷した大山巌は姉からこのような叱責を受けた。
 
「おはんな、どぎゃん顔してこの家の敷居を跨ぐことが出来っとか。
大恩ある西郷さぁに大筒向けて、ようもまあ鹿児島(かごんま)に来れたもんじゃで」
 
記憶で書いているので正確を期すことは出来ないが確かこのような話だったと思う。
それを聞いた大山は感耐え切れず泣きじゃくった。
因みに大山巌の元の名前は弥助。
それにしてもこの戦いは維新9年目にして日本に甚大な損害を与え、戦費は勿論、戦死者、政府軍6940人、負傷者9200人。
西郷軍の戦死傷者は約15000人、処刑者2764人。
西郷軍の失敗は熊本城を包囲したことにあり、城を素通りして北上していれば、呼応する全国の不平士族を糾合することで、一定の効果はあったと思うのだが。
 
本書には首の問題以外にある奇妙な奇縁が書かれている。
翌11年の大久保暗殺の関係書には必ず下手人として石川県士族、島田一郎ら6人と記述されているがこの島田と千田は竹馬の友で文官になるのを嫌った千田が陸軍を選び西郷の首を発見、野に下った島田は大久保を暗殺してその首級を上げた。
島田と千田が竹馬の友なら西郷と大久保も竹馬の友。
確かにおかしな因縁だ。
 
余談だが昭和の聖将と言われた今村均陸軍大将は千田の娘婿で、下って永山則夫事件の最初の被害者は千田の曾孫に当たるらしい。
とまれ弘化4年に加賀藩士の子として生まれ、戊辰戦争西南戦争日清戦争日露戦争に従軍し、陸軍最古参で数々の逸話に彩られた名物男は昭和4年4月16日に81歳で死去。
新聞は書く。
 
「品行端正にして人格高潔見識高邁、常に志操堅固であった」
 
因みに剣術は小野派一刀流の達人。
 
ポチッ!していただければ嬉しいです ☟