愛に恋

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開国―愚直の宰相・堀田正睦 佐藤雅美

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江戸時代、老中というのは一人ではなく、常に四人ぐらい存在し、そのメンバーの合議制で物事を決めていたらしい。

幕末、ペリー来航時の筆頭老中は阿部伊勢守正弘で、この難局を乗り切るため担ぎ出されたのが堀田備中守正睦で、大老井伊直弼が登場するまでは彼が老中首座として幕政を担った。

この本は、堀田備中守を主人公に据え、かなり長編だが結構面白い。

 

だがしかし、今日は阿部伊勢守正弘について少し触れたい。

幕臣で明治の大ジャーナリストに福地桜痴という人がいる。
この人が維新後、幕末のことをいろいろ書いているが、それによると、桜痴の主張は公武合体論だが、薩長による合体ではなく、徳川家主体の公武合体で、充分、それが可能だったと解く。
しかし、その前に十三代将軍家定からの批判も忘れない。
 
「この方は暗弱とは言わないけれど難局に当って快刀乱麻を斬る器ではなかった。いはばまあ、太平の世の中君である」
 
「青年時代から癇癪持ちで、進退動作すこぶる異様。顔形ははなはだ閑雅でなく、将軍家に必要な威厳がまるで欠けてゐた」
 
「この怒りっぽさは、お若いころ、ふとしたことから男女の仲のことができなくなったせいで、いよいよひどくなり、時として狂人と見える挙動もあった」
 
つまり将軍家定には子が出来ないかも知れないという噂が当時からあり、そこで一計を案じたのが阿部伊勢守。
薩摩の島津斉彬の養女篤姫を家定の御台所に迎えた。
老中と外様藩の大名という関係にありならが二人は仲が良かった。
伊勢守としては時期将軍は一橋慶喜、家定に子が出来たならその次という案だった。
 
普通、老中職は平均五年の在職で、伊勢守は若干25歳で老中首座に就き、39歳で病死するまでその職に在ったというから、よほど有能だったのだろう。
がしかし歴史は皮肉なものである。
福地桜痴はこのように書く。
 
「惜(おしい)かな将軍家には、男女の道も叶はせられざるを以って、御台所の御苦心もその甲斐なく伊勢守はその翌安政四年を以て卒去せられ、将軍家も薩摩守もまたともにその翌安政五年を以て薨ぜられたりければ、この政略婚姻はその効を見るに至らざりき。もし薩摩守・伊勢守にしてともにその生存を永からしめば、あるいは幕府の命脈もこれに繋ぎ条約の議論も円滑に行なわれたらんかと思わるるなり」
 
つまり伊勢守が存命なら、大老井伊直弼の登場もなかったということになるのか。
確かに伊勢守と島津斉彬が今少し存命であれば歴史は変わっていたかも知れない、歴史にもしは無いが、この歴史のイフは実に面白い。
更に江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚が、水戸家の当主徳川慶篤から聞いた話しとしてこんな逸話がある。
 
「昨日、中納言慶篤)から聞いた話しだが、勢州(伊勢守)も実に痩せ衰へ、夜中なら向ひ合って話をするのも厭なくらゐ。絵に描いた幽霊のやうで、立居ふるまひもむづかしそうである。中納言の話しでは、お城の茶坊主などは、十五歳の新しい妾が出来たせいと言ってゐるとやら。たとへ妾が三千人ゐたとても、交合の回数をきちんと決めて置けば、体に障るはずはないのに」
 
伊勢守は交合を頑張り過ぎたため、寿命を縮めたような書かれかただが、果たして真相や如何に。
時に伊勢守39歳、妾15歳。
 
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