愛に恋

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長崎日記・下田日記 川路聖謨

幕末史を紐解くうえでは重要な人物とされる、勘定奉行川路聖謨ロシア帝国海軍プチャーチン中将と、日露の国境を定めた人物として名高い。その川路が著した『長崎日記・下田日記』の存在は、以前、川路の歴史小説を読んだ関係で知ってはいたが、まさか巡り合うとは思ってもみなかったが突然、古書市で見つけてしまった。かくなるうえは買うしかない。東洋文庫を買うのは二度目だが、如何せん読みづらい。二段組で文字が極端に小さく、原文を1頁読んだら裏には注釈が1頁ってなもんですよアナタ。仕方ないので1日30頁から40頁ぐらいしか進めないが、根気よく読む。徒然に読みながら、まあ、とにかく驚くのは昔の人の健脚の凄さ。50代にして江戸から長崎まで駕籠、徒歩で往復する。多い時には日に十五里も歩くというからびっくりだ。十五里といえば60キロになる。そして翌朝早く起きて、「昨夜の疲れ、洗うが如く、少しもなし」と言って出発なわけだから、荷物を持った家来たちの苦労が偲ばれる。先ずは長崎に着いたプチャーチンと折衝。確か当時の通詞はオランダ語を介してロシア人と会話していたと思うが、ロシア全権大使でもある、布恬廷(プチャーチン)と一方ならぬ談判を繰り広げる。ただ言い争ってばかりではなく、互いに贅を尽くした食事でもてなし歓談も行っているので、決して険悪というわけではない。それどころか折衝を重ねるごとに分かってきた、プチャーチンを「真の豪傑也」と評価している。江戸に戻ると翌月には下田港にきたプチャーチンと条約と領事問題で激しく折衝。幕閣は痛く川路の業績を評価しているようで、低い身分から異例の出世をして駆け上ったが川路だったが、条約勅許問題で、老中堀田正睦の副役として上洛したが、これが失敗、時に大老井伊直弼の登場で、将軍継嗣問題発生、一橋派の粛清が始まり左遷。川路には他にも多くの日記が残されているようだが、私にはこれで精いっぱい。