これを読むと、美術界に於ける東郷青児の評価は芳しくない。
しかし、著者は彼を擁護する為にこれを書いたのか。
「東郷という男は、本当は、美術界で言われるような悪党ではないのかもしれない」
が、東郷を取り巻く環境は名声こそ二科会の帝王として高い地位を得てるが、何一つ評判のいいことはない。
画家、画商は口を揃えたように言う。
「あの人は、画家というよりは企業家、政治家だよ。政界に入ったら総理大臣になっているに違いない」
更に、東郷に対する冷ややかな侮蔑もあったようで。
「東郷がどんな理屈をふりまわそうと、現実に出来あがった彼の絵は女学生向けの
洋風美人画であり、所詮鑑賞に値する作品でない」
それら、まるで悪代官のような風評に立ち向かうべく、ペンを取って立ち上がったのが美術評論家として駆け出しであった著者ということになるのか。
一見、何から何まで悪に染まってしまったような東郷をどう料理するのか、先ずは、東郷の評価の低さと政治家呼ばわりされる理由だが。
ひとつは節操のない女性関係。
今一つは強引な二科会の再建。
また、今日も長くなりそうだが、この二つは避けて通れないので書かざるを得ない。
二科会の方だが戦後すぐ乗っ取ったようだ。
終戦の詔勅を疎開先の信州で聞いた東郷は、その翌日、早くも上京して軍部の圧力によって解散させられていた、旧二科会員の消息を訪ね歩き、幹部級の会員が疎開して東京に居ないことを確かめると、二科解散時の整理委員を訪ね、印鑑、帳簿、名簿と二科再建に欠かせない三種の神器を強引に譲り受け狼煙を挙げた。
誰が再建しようとかまわないわけだが、発起人はまず解散前の全会員にそのことを通知し、その上で新しい組織を作って役員を決め、再発足を諮るのが筋であるのに、東郷はそれをしなかった。
自分の言いなりになる若い画家たちを掻き集め、自ら、その総帥におさまってしまい、乗っ取りに成功する。
そればかりではない。
その代表たるべき東郷が日本芸術院に推挙され、それを受けてしまった。
これとても、東郷の持つ政治力が選ばせた結果だと人は言う。
芸術院会員と二科を手に、反対派を全て会から追い出し、絶大な権勢を誇った東郷に一つだけ意のままにならないことが。
それは絵の価格の低さ。
梅原龍三郎の絵が200~300万で取引きされるのと比較すると、東郷の絵は号20万円にもならなかったらしい。
日本では戦前から前衛的な作品の値は無きに等しい物とされ、特に東郷は内容のない絵を描く画家と見られ、梅原と比べると芸術性に於いてかなり低く見られていたのだろう。
確かに東郷の絵は喫茶店や病院などでよく見かけるが、その作品性からレプリカなのか否かよく判らないところがあり、じっくり見たいという気持ちになれない。
しかし著者は、それら評価の低い東郷の内面に見え隠れする孤独を捉えていたようだが、今少し東郷の悪評、女性関係を書かなければならない。
東郷の初婚は大正9年9月、お相手は資産家次女の永野明代(はるよ)。
だが、大正10年4月、妊娠中の明代を残してパリに渡る。
明代の父が8年2月に亡くなっているので、洋行費用は明代を通して岳父の遺産から出されたものと思われる。
昭和3年5月、東郷は何の前触れもなく帰国、既に生まれていた子供と3人で暮すが、明代に対する愛情は醒めていたようで、そんな時に運命の女性、西崎盈子(みつこ)が出現。
盈子(19)は海軍少将の娘にしてクリスチャン。
当然、二人の恋愛は成就するべくもなく、父親によって引き離されてしまう。
悶々としている中、英語塾を卒業したばかりの令嬢中村修子という女性と出会う。
修子の父は自転車屋の小僧から叩き上げ、巨万の富を築き上げた立志伝中の人物で、それに目が眩んだかどうか分からぬが昭和4年2月17日、東郷は二重結婚に踏み切った。
大胆な!
しかし、再び舞い戻って来た盈子と昭和4年3月30日に心中事件を起こす。
以来、家計は専ら宇野の稼ぎに任せ、至って暢気な東郷。
彼の悪評はこれだけではない。
到底、払えないような金額でも堂々と人から借り、借金の催促に来た人物には、返せないと分かっていて貸す方が悪いと居直る。
相手が怒ると、つまらんことでそんなに怒るなんて、あんたも大人げないではないかと嘯く。
東郷の詐欺師ぶりはスケールの面に於いて実力と風格を備えていたと人は言うが!
その後、5年に及ぶ宇野との結婚生活に終止符。
原因は又しても盈子の登場。
再び現れた盈子との間に焼けぼっくいに火が点いてしまった。
昭和9年秋、二人は念願叶って結婚。
ところで著者は東郷自身とは何度も会っているのだが、これらの問題に付いて書かれた中川紀元の『彼等はなぜ情死したか?』と、東郷本人が書いた『情死未遂者の手記』を国会図書館で閲覧しようと借り出してみたら肝心のその部分だけが鋭利な刃物で切り取られていたと記しているが、これは如何に。
東郷の手下の犯行か?
さてと、少々、疲れて来ましたがこの感想文をこれで終わる訳にはいかない。
東郷の仕事に付いて書かなければ。
18歳の時、山田の援助で個展を開き、白樺派の有島生馬の目に留まる。
以来、東郷は有島に師事し二科展入賞、パリ留学と活躍の場を広げていくが、そんな東郷の事を有島は後年、このように言っている。
そう言えば、あの逸話は本当なんだろうか。
夢二に寝込みを襲われ、バットで殴りかかって来たのをかわし、衣類を持って屋根から飛び降り裸足で逃げて行く東郷。
いくら著者がせがんでも、お茶を濁すよにその辺りの事を語りたがらなかったらしいが、東郷本人が残した本によると、その頃の事情はこう書かれている。
夢二が新潟に旅出した留守中のこと。
ある日、旅先の夢二から長文の電報が鎌倉河岸のたまき宛に届く。
前夜から泊まりこんでいた東郷と神近市子が一緒になって、たまきとその電報を判読したが、それにはこうある。
昨夜、お前が不義のちぎりを結んでいる夢を見た。
というショッキングな書き出しで始まり、更に。
自分の今までの経験で、このような顕示は常に的中していた。心おだやかではない。
もしお前にうしろ暗いところが無かったらこの電報を取り次第東京を立って新潟に来い。
そして神近は、あの大きな目で穴のあくほど東郷を見つめ
「あなた、何かあったでしょう。こんな直感は十中八九まで当たるものよ」
そして、神近はたまきに言う。
「事実がどうであろうと、すぐ新潟にお立ちなさい」
神近はたまきと友人だったわけだ。
これは意外。
しかし、事の真相は有島生馬が知っていた。
まだ17歳の東郷が30代のたまきの家に居たところを夢二に踏み込まれ、部屋の隅に置いてあった少年野球用のバットを持って殴りかかって来たと。
やはり、噂は本当だった!
ところで画壇における有島生馬と夢二の立場は全く正反対なもの。
当時は官尊民卑の時代。
時代が大正になって夢二の人気はうなぎ上りになるが、ヨーロッパ的な写実本位に絵を描く文展系画家とは違い、絵の形式で詩を書こうとする夢二の画風は、当時の日本画壇をリードしていた黒田清輝の文展洋画から、当然のことながら異端視されていたが、そこに現れた、ただ、ひとりの理解者が有島生馬ということになるらしい。
東郷は「俺の絵を作ったのは、実際のところ、それはパリのルーヴルなんだよ」と言ってるが有島は断言して夢二の影響だと言う。
山田耕筰の内弟子になる以前、17歳の東郷は夢二の「港屋」に入り浸って夢二画の写しをやっていた時代があり、その結果、東郷は画壇から内容のない絵を描く通俗美人画家として黙殺される道を行く、つまりは夢二の二の舞になったと。
どうだろうか、この推測は・・・!
では、なぜ東郷の絵は理解されないのか?
下のサルタンバンクの絵を描く前、こう言っているが。
「俺はいささかパリの新しい主義や主張にうんざりしていた時でね。
イズムに食傷していた時なんだ」
「俺は日本から行った、日本の絵描きだからね、体質的にも、やつらの徹底した
科学主義、肉食主義的感覚には、着いていけなかったんだ」
例としてこんな作品を挙げている。
女性の局部の写真をパネルにして並べたり、床にウサギの死骸を置いて、これに出品者が毎朝小便をかけて腐ってゆくのを見て、これが腐敗の構造を示す作品だという。
しかし、今日、我々が知っている東郷の絵というのは、白くきめ細やかで、透明な輝き放つ女の肌。
それを繰り返し書く。
批評家は内容のない風俗画と言い、美術記者はことさらに無視しようとする。
しかし、東郷は執拗に女を描く。
「絵でも、女でも、ほかのなんでも、人生のことってやつは先が分からずに面白
おかしくやっている間に、自然とうまくおさまってゆくものだよ」
と、東郷は言うが。
結論として著者はこのように締めくくっている。
キュービズムを中心とするヨーロッパの造形性を、初めて本格的に、日本の油絵に移しかえた日本人油絵画家として、肉感的で優美な女体を礼賛する芸術家として、フジタ以上に東郷を評価する欧米の美術関係者が何人もいるというのに、日本ではついに東郷の真価を画壇の誰も理解することはなかった。
これこそが真に現代日本の油絵といえる油絵を描いた東郷を、日本の画壇はついに見捨てたままでいたのである。
そして怒っている!
こんなバカなことがあっていいものだろうか?
自分のやっている仕事について、ついに理解されぬまま突然の死を迎えた東郷を、私はどうしても非業の死を遂げたと考えないわけにはいかなかった。
とまあ、そういう訳だが、あまり専門的なことになると私は解らない。
しかし、夢二は50歳で死去し、東郷は81歳近くまで生きた。
この本は昭和58年4月発行でかなり古い本だが、それ以来、今日まで東郷の評価は変わらないのだろうか?
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