愛に恋

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片倉参謀の証言叛乱と鎮圧 片倉 衷

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戦前の陸大を卒業するには東大以上に難しいと聞いたことがある。

まあ、そりゃそうかも知らない。

東大には軍事を習う必要はないし、精神の鍛練も要らない。

そのエリートが書いた本を、中卒の私が読もうってんだからお話にならない。

それも旧字体で書かれているので猶更だ。

専門用語は勿論、現在では使われていない単語など言い出したらきりがないが、とにかく難しいこには間違いない本だった。

ただ、この人に関する予備知識だけは持ち合わせていたのが幸い。

片倉 衷の衷とは、「ただし」と読む。

相沢事件で永田軍務軍務局長が惨殺された時は軍務局長室の隣で執務しており片倉は、「大変だ」「局長がやられた」という声を聞いてすぐに局長室に向かい、刀が肺を貫いていた永田を目撃、片倉は永田に馬乗りになり、40分間ほど人工呼吸を行ったらしい。

二・二六事件当日には、陸相官邸に出向き川島義之陸相に面会を求め待っていたところを、反乱軍の磯部浅一に左頭部をピストルで銃撃された。

弾丸の抜き取り手術は成功し一命を取りとめ、逆に磯部は銃殺刑になった。

磯部ら青年将校らは昭和維新を声高に叫んでいたが、この本によると昭和九年の段階でかれら皇道派の急進派と片倉は何度も会って、その思想は何なのか話を聞きに行っている。

当の磯部とも面識があったとは意外だった。

大尉というと、だいたい30歳ぐらいだが、当時の軍人は考えることが大きい。

片倉が大尉時代に考えていた国家改造なるものが、ここに書かれているが、彼言うところはあくまでも軍中心の改造。

然し、研究熱心なのはいいが尉官の分際で少々語ることが大き過ぎるような気がする。

例えば「軍司令官は単なるロボットではなく、自らの考えで行動しなくてはならない」とまで言っている。

確かに満州事変の時の関東軍司令官本庄繁大将は、殆ど蚊帳の外で実行は板垣大佐と石原参謀の計画。

更に昭和陸軍の逸材、天才といえば殺害された軍務局長の永田鉄山少将と関東軍高級参謀の石原莞爾中佐だが、この二人が軍政は永田、作戦は石原と両輪が整えば陸相参謀総長を輔け、時局の転換、国家の立て直しが出来るかも知れないと書いているが、確かに二人揃えば、或いは後の太平洋戦争も回避出来たかしれないと思えば、誠に残念な結果に終わってしまった。

永田の兇死は歴史的にみて国家の大損失で、永田に護衛を付けてはどうかと忠告していただけに、悔やんでも悔やみきれなかったろうに。

ところでさすがに統帥権に関する事項は読み逃がさなかったが、戦前、この統帥権には内閣は翻弄され続けた。

統帥権とは、軍は天皇に直結していることで、内閣の命令も、議会の命令も受けない。

闘いを始める日時も場所も言う必要はない。

それが明治憲法の規定で、片倉 衷は以下のように書いている。

統帥ト統治トヲ判然ト区別シ統帥権ノ独立ヲ明確ナラシムル一方軍事、外交、財政等国防的諸要素ノ有機的一元化を期ス

その他、婦人参政権も認めずと言っているので、徹頭徹尾、軍国的な考えではないか。

誰もが言う、この統帥権の独立と、陸海軍がばらばらに作戦立案を立てるところが大問題なのだ。

アメリカのように陸海空を束ねる統合参謀本部議長なるものが存在しない。

更に言う。

忠孝家系尊重敬老敬師貞淑感恩信義等伝来ノ醇風美徳ヲ助長シ自治精神ヲ涵養シ公徳心ヲ養イ耐忍持久ノ風ヲ馴致ス

随分難しい文面だが、要は伝来の孔子の教えに則り、持久忍耐の精神を養えということではないかな。

その他には、華族制度の改正、英米衝突ヲ回避シツツ蘇国ヲ成ルベク早期ニ撃破ス

これには賛成だ。

南進論ではなく北進論でドイツと共同してソ連を叩いておけば、後に一方的に不可侵条約を無視して北方四島を侵略されずに済んだはず。

文部大臣ハ当分武官ヲ以って充当シ速ニ制度ノ革新人事ノ刷新ヲ図ル、而して速ニ文部省内人事及組織ニ一大斧鉞ヲ加フ

斧鉞はおのとまさかりと書いているので余程肚に据えかねているのだろう。

当分の間武官を以ってとは文官ではだめだから軍人をその任に当たらせるということで、学校教育がなっとらんと言っているのだろう。

確かに陸大出身だけあって思想哲学を語らせら素晴らしいのかも知れないが、それは戦前の話であって今では通用しない。

然し乍ら片倉 は平成 3年まで長命し、昭和を生き延び、戦後の変わり果てた日本をどう思っていたのか、これこそが知りたいところだ。