久しぶりの二・二六事件関係の本だが、今年の二月だったか紀伊國屋に行ったおり、出会ってしまったのが運の尽き、これは買わずにいられない。
事件後、初めて書かれたと言ってもいい本格的渡辺錠太郎伝なのだ。
教育総監陸軍大将渡辺錠太郎、事件当日、9歳の娘和子の目前で機関銃弾43発を浴びハチの巣状態にされ、顔から肩にかけて、どめの刀傷、後頭部に銃弾を撃ち込まれれ即死。
更迭された大将の前任者が皇道派の真崎善三郎だっただけに、青年将校らに恨みを買ったか、然しどうだろう。
大将はこのように言っておられる。
「軍の本務は非戦平和の護持にあり」
確か、司馬遼太郎も「戦わない軍人が一番偉い」というようなことを言っていたが。
大将は愛知県犬山市の産だということは知っていたが、小学校を三年程度しか通っていないそうな。
私も名古屋市に37年程居た手前、犬山市がどのような所か知っているが、まあ、それなりの田舎と言っていい。
明治27年、20歳になった錠太郎青年は陸軍士官学校に入学したいと言い出したから村長も驚いて諫めに入った。
「郷土小牧の生立」にはこのように書かれている。
風体挙がらぬ田舎の青年、学歴に恵まれぬ一窮措大、吏員はヂッと将軍の姿を見下した、そして士官学校の入学は容易では無い、而も正則の学歴の無い身では、一瞥呉下の阿蒙と見極めた。
一窮措大とは貧乏学生のことで、一瞥呉下の阿蒙は、いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉だが、まあ、読んで字の如しで、うだつの上がらない青年と思われたのだろう。
然し蓋を開けてみれば独学の人、錠太郎は地区でトップ当選。
陸士の八期で同期には後の首相、林 銑十郎陸軍大将がいる。
27年12月31日の日記を見ると。
「月日流るるが如く27年の本日にて尽く。頭髪漸く白く功業未だ就ならず。唯長大息するのみ。今や寒気漸く加わり、朔風凛々遥かに征夫(出征兵)を思えば涙襟を湿す」
29年11月、士官学校を206名中4番、林 銑十郎は15番。
陸軍ではこの順位は生涯付いてまわる。
扨て大将の思想だが、非戦論者ではあるが、決して空想的平和論者ではない。
願っているだけでは平和は来ない。
確かに、憲法九条を後生大事に拝んでいるだけでは平和は守れないのと一緒だ。
話は前後するが、本書には至る所に大将の日記が引用されているが、解説がないとやや分かりづらい、それほど猛勉強をしたと思われる。
士官学校に入学し、その後、陸大(陸軍大学校)を首席で卒業し恩賜の軍刀を授かるという名誉に浴している。
大将は少将あたりで免官、予備役になるもとばかり思っていたそうだが、軍は渡辺を必要とし、結局、最高位である大将に昇進してしまった。
これが運命の分かれ道となった。
元々、子供時代には百姓をしていたので、退官なった後は故郷の犬山に帰って野良仕事に精を出すつもりでいたのが。
昭和十年皇道派の相沢三郎中佐が統制派の軍務局長永田鉄山少将を陸軍省内で刺殺する事件が起き、渡辺大将も家族に洩らしていた。
「戦争だけはしてはいけない。(戦争にひた走ろうという人々にとっては)おれが邪魔なんだよ」
そう、軍務局長が陸軍省内で惨殺されるなどは、軍始まって以来のことでただ事ではない。
この頃になると皇道派と統制派の軋轢は修復し難いものになっていた。
若し、永田軍務局長が生きていれば、若し、渡辺錠太郎大将が生きていれば、後に起きる太平洋戦争は違ったものになっていただろうという説がある。
二人は東條より先輩で16年10月、近衛内閣が退陣した時には永田内閣が出来ていたかも知れない。
これは充分ありえるだろう。
林 銑十郎も大命降下したぐらいだから、渡辺錠太郎にも或いはと思うかもしれないが、当時、木戸内府は陸軍を纏めることの出来る人物を模索していたわけで、渡辺より後輩だが、ここはやはり永田が妥当だと考える。
光秀が謀反を起こさなかったらと考えるように、相沢事件が起きなかったら、あんな無謀な戦争も無かったのだろうか。
戦争をしてはいけないと言う渡辺錠太郎大将。
永田の前に永田なく、永田の後に永田なしと言われた永田鉄山。
あんな負け戦にならないよう、どうしてくれただろうか。
歴史とは、本当に皮肉なめぐり合わせの産物だ。