愛に恋

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中島敦と原節子

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戦前から戦後に一時代を築いた横浜出身の女優、原節子。42歳の若さで銀幕を退き、2015年に95歳で亡くなった日本映画界の伝説は、横浜高等女学校(現・横浜学園高校)に在籍した。当時、後に「山月記」「李陵」などを書いた作家の中島敦は同校の教員。1年生だった原にも教えていたことを確認できる資料が、このほど見つかった。
横浜・元町にあった同校は空襲で全焼し、戦前の記録はほぼ失われている。しかし、学校創立者の親族で、同校の教員だった故・田沼要人(かなめ)氏の手帳が、横浜市金沢区にある田沼家の土蔵に保管されていた。要人氏の孫の妻である裕子さん(55)が木箱に入った資料を整理したところ、クラス名簿などを含む手帳は数年分あり、原が入学した1933年度のものもあった。手帳の1年2組の名簿の欄外には、原の本名(会田昌江)の誤記と思われる「会田昌代」の書き込みがあった。原は受験に失敗して二次募集で入学したため、「欄外に手書き」の扱いになったのだろう、と裕子さんは推察する。

 

当ブログでは何度も書いているが、どうにかして終戦を早める方法はなかったのかと。

さすれば国土の大半が焦土と化すようなことはなかったろうに。

この戦争のお陰でどれだけの貴重な文物が失われたか計り知れない。

然しこの記事どうだろうか。

気になったのは後に有名になった原節子が、実は会田昌江だということを中島敦は分かっていたどろうか。

反対に、かつての担任が、あの「山月記」を書いた中島敦先生だと原節子は認識していただろうか。