今日は歴史四方山話を一席。
最近ではコロナ過と五輪で殆ど話題といってはこれしかありません。
拉致問題などはどこ吹く風。
政府は何をどのような方針でこの問題に取り組んでいくのか知りませんが、よく聞くのが「粘り強い交渉」これです。
然し、交渉しているかどうか、粘り強くやっているのでしょうね。
その粘り腰が高齢者となっている被害者家族の死を招いているわけです。
このままで「そして誰もいなくなった」を待つばかり。
明治六年の征韓論は授業で習ったので知っていると思うが、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』では仔細に書かれています。
この物語は西南戦争をもって終結するのですが、明治七年に起きた征台論に関することも忘れることが出来ません。
事件は明治4年10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害された上、斬首されるという過酷なものでした。
当時の外務卿は肥前の参議副島種臣でしたが、副島が征韓論で下野したため、大久保が外交を担当。
大久保は北京に乗り込み、清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外としてこれを拒否。
有名な「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない」という言葉。
これを聞いた大久保は責任の範囲外で。
国内では征韓論騒動で西郷の下野があり、政府批判も激しく岩倉公の暗殺未遂まで起きる騒ぎ。
参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入る。
征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして木戸などは反対の態度を崩さず、下野してしまった。
その後、政府は一旦、派兵の中止を決定したが、隆盛の弟、西郷従道は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3,000名を出動させた。
上陸した日本軍と現地住民との戦闘が始まり、戦死者は12名であったが、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、561名が病死。
何も北朝鮮と戦争せよと言っているのではないが、相手は解決済みと言っているものを、ただ粘り強くの題目を唱えるばかりで、本当に解決すると思っているのか疑問だ。