愛に恋

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ジェローム神父 マルキ・ド・サド

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挿絵は会田誠らしいが、あまり興味がない。

それにこの手の小説にも興味がない。

少女を誘拐し、拷問、毒を飲ませて陵辱、目の前で婚約者を殺害、その心臓を食わせる。

マルキ・ド・サドだから読んだものの、他の作家だったら読まなかった。

主人公の言い分はこのようなものだ。

「真の幸せを得たいのなら、自分の快楽だけを考えていれば良い。いったい他人を思いやることに、どれほどの価値があるというのだろう? 道徳なんてものはさっさと捨てて、悪に染まることを恐れず大っぴらに生きた方が、人間幸福になれるのだ」

 悪を悪と思わず、開き直って生きればこれほど楽しいことはないということか。

切り裂きジャックのように、史上何人もその手の異常者を見て来たが、それはこちらが勝手に決めつけたことで、当の本人は極めて冷静に相手が苦しむのを見る楽しみが止められなかったとなるのか。

本文中にある、主人公の言い分をもっと聞こうではないか。

最も幸福な社会状態は、風俗の退廃がもっとも広範に行きわたった社会状態であろう、ということだ。何となれば、幸福は悪の中でこそはっきり目に見えるものだから、もっとも熱心に悪に身を捧げる人間が、どうしたってもっとも幸福な人間であろうからだ。

 

悪しき行為こそ、人間の感じうるもっとも激動的かつ快適な昂奮を永遠に生ぜしめるのではないか? あらゆる社会のうちで一番幸福な社会は、必然的に一番腐敗した社会にちがいあるまい。

 

繰り返して言うが、道徳は幸福のためには何の役にも立たないものだ。道徳は幸福を傷つける、と言ってもよい。社会と同じように、個人が地球上の幸福の最大量を見出すのも、もっぱら、もっとも広範かつ全般的な堕落のうちにおいてなのである。

 

性善説なる意見には複雑な要素を孕んで、一概にそうだと言い切れないのが私の意見だが、人間は自然環境の中で自ずと道徳の本文を身に付けて行く場合もあるが、劣悪な環境で育っても慈悲の心が育まれ健全な精神を宿す人もいる。

逆に豊かな教育環境で不自由なく育てば、人間的バランス感覚の整った心根の優しい人になるかといえば、それも一概にいえない。

簡単にいえば、人間は法律があるから悪事を働かない、では法律や警察のいない国家だったら、自然と悪行を働くようになり、それこそ善人は存在しなくなるのか。

これは難しい議論だ。

あとがきは澁澤龍彦が書いているが、一読する限りではサドと似たような事を書いている。