愛に恋

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スカトロジア―糞尿譚 山田 稔

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以前、野坂昭如がテレビ番組でこんなことを言っていた。

友人が駅に向かう途中、逆に駅から出て来た自分好みの美人を見かけ、その美人の後を自宅まで着いて行ったらしい。

そして、玄関で呼び鈴を鳴らし、訪れた経緯を語り、こう言った。

「貴女のおしっこを飲まさせてください」

実話らしい。

 

誰もがとは言わないが私は糞尿に関する思い出が一杯ある。

古くは幼稚園時代まで遡ることも出来る面白い話もあるのだが、それらをここで書いても仕方ないので、ほんの一例を紹介したい。

中学を通じて仲の良かった藤〇という友達が居た。

あれは中1の頃だったか、当時の便所はまだ和式のぼっとん便所で、どちらが言い出したのか、一つの便器に背中合わせに座って一緒にウンコをしていたことがあった。

まだ子供だった二人はそれが滅法面白く、示し合わせてはトイレに入ったものだが、込み上げる笑いをどうしても堪えることが出来ない。

ある日、隣に入った生徒が、それを聞きつけ職員室に走った。

すわ、一大事、教師を連れてやって来たのである。

 

ドンドンドン、開けろ、何やってんだ!

慌ててお尻を拭いた私たちは職員室に連れて行かれ、先生方が見ている前で詰問される。

「バカ野郎、二人でなにやってたんだ」

「・・・」

「答えろ、何してたんだ」

「ウンコしてました」

「ウンコ?」

「はい」

「二人でか!」

「はい」

「どうやって?」

「こうやって、二人、背中合わせにです」

「本当に、そんな恰好で出来るのか?」

「はい、出来ます」

「何てバカな奴なんだ、お前らは。二人でウンコして何が面白い」

「すいません」

 

まあ、世にこんな情けない話があるだろうか。

中合わせでウンコをしていた!

今、考えてもバカバカしい。

 

余談が長くなったが本書スカトロジアは全編、そのウンコが主題。

著者は学生時代、こんな講義を受けたらしい。

「なぜ日本文学には人間の排泄物がひんぱんに出てくるのか」

そうなの、そんなに頻繁に出てくるの?

読み進めるうちに分かってきたが、著者山田稔氏は恐ろしく博覧強記のフランス文学者で洋の東西を問わず、あらゆる書物を読み漁り、その中から糞尿に関する記述を多く紹介している、なるほど確かに相当な読書量がないと、こんなに多くの糞尿文学を紹介することは出来ない天下の奇書だ。

この本を買うにあたって、当初は面白半分にだったが、深みにハマる内容で意外に手古摺り難しい。

例えば、

 

私見によればスカトロジーには大別して二つのタイプがあるように思われる。「陽のスカトロジー」と「陰のスカトロジー」、あるいは「解放型=ルネッサンス型」と「挫折型=実存型」である。

「陽」の代表は、ラブレー、ボッカチオ、チョーサー、そしてバルザック

……これらの特徴は、糞尿譚によってひきおこされる笑いの明るさ、無邪気さである。ここでは糞尿イメージは象徴性をほとんど帯びることはない。「汚物」をあえて描くことによる社会風刺、あるいは清浄へのパロディの意図はあっただろう。……

20世紀になると台頭するのが「陰」。その始まりは18世紀のスウィフトとサド(文学的にではなく、スウィフトの「風刺」ではない「否定」と、サドの「反社会・反逆」を結びつける)。実存主義に結びつく。

サド=スウィフト系列のスカトロジーにはもはやルネッサンス的笑いの明るさは感じられない。ラディカルな反逆性とそれゆえの深い疎外感、挫折意識、あるいは狂気すれすれの人間嫌い、――この系列のスカトロジックなイメージは多少ともこのような暗い不幸の意識が生み出したものなのだ。……

 

こんなことを読まされる。

更に、人間は大便をしている時が一番真剣に物事を考えているという。

うん、確かにそれは言えるかも知れない。

それを証拠に文豪谷崎潤一郎も『陰翳礼讃』で書いている。

 

便所の匂いは神経を鎮静させる効用あるのではないかと思う。便所が瞑想に適する場所であることは、人のよく知るところであるが。

 

その谷崎が、志賀直哉芥川龍之介から聞いた話として紹介している、中国の倪雲林という人の便所についての工夫を書いている。

倪雲林は蛾の羽をたくさん集めてフン壺に入れ、その中へウンコをたれる。

つまり軽いフワフワしたものの中に「牡丹餅」を瞬時にして埋めてしまう。

これが谷崎の美徳にマッチして、その様を次のように描写している。

 

上から糞がボタリと落ちる、パッと煙のように無数の翅が舞い上がる、それが各々パサパサに乾燥した金茶色の底光りを含んだ、非常に薄い雲母のような断片の集合なのである。そして何が落ちて来たのだか分からないうちにその固形物はその断片の堆積の中に呑まれてしまう。

 

水島爾保布という人の話も著者は紹介している。

 

人糞を天日で十分に乾かしてから、細い粉にし、塩や胡椒などを混ぜて風味をつけ、ほかほかした銀めしにふりかけて食べると、実に乙なものだ。

 

と言っているが、どうだろうか、試してみる価値があるものなのか。

誰か実験してくれると有難いが。

他に上林暁の『小便小僧』と『少将滋幹の母』『乱菊物語』『今昔物語』などを引用してウンコ三昧の話が続くが『史記』の中の刑罰としてこのような例を引いている。

手足を切り落とした女を、ウンコの中に漬けておき、その女は三日生きていたと書いてあるが、しかし、本当に人間は残酷だ。

古来、考えられる全ての拷問は行われてきたであろう。

『南撰文要集』なる本には次のような例もある。

 

「新人の入牢人有之候へば衣類並下帯迄取改の上入牢致させ候儀所右裸体の囚人を土間へ下し牢内に種置候糠味噌之上水を全身へ塗付け夜中衣類を着せ不申差置候故寒中など一夜に病気なる者は半死半生になり候由、翌日になり衣服をきせ候へば直ちに吹き出もの致し腫物に鳴り候旨、扨大便食させ候儀有之候由、これを食べ候ものは大方はこれ病出相果候由」

 

全く酷いことをするものだ、新人を裸にして糠味噌を全身に塗りたくり更に水をかけ、寒い牢内で一昼夜置く。そして翌日、大便を食わせる。これを食べ候ものは大方はこれ病出相果候由」とあるので、大便を食べた者は、病を発症し相果てる。

著者の話を尽きず、学者平賀源内のスカトロジー分野の話も紹介している。

平賀源内には『放屁論』『放屁論後編』なる書があるそうだが、例えば『放屁論』の跋には次のように書かれている。

 

「漢には放屁といひ、上方には屁をこくといひ、関東にてはひるといひ、女中は郡(すべ)ておならといふ。其語は異なれども、鳴と臭きは同じことなり。その音に三等あり。プッと鳴るもの上品にして其形円く、プウと鳴るもの中品にして其形飯櫃(いびつ)形なり。スーとすかすもの下品にて細長く放(ひら)ざる音なく、備(そなは)らざる形なし、云々」

 

平賀源内は日本の発明家、色んなことに興味を持つわけだ。

随分長く書いているが、今少し続けたい。

フロイトの解釈では、なぜ子供は糞尿譚が好きかという問題で、子供は排便の刺激によって肛門愛(幼児性欲)を満たすものだとある。

そういうものなのかな。

「子供のウンコ好き」とまで言い切っている。

安岡章太郎によれば、便所の水洗化に伴いウンコへの関心が薄らいだと言っているが、知的階級の人は、そんなにウンコに関心を持ち哲学的に考察しているのだろうか。

因みに本書は昭和37年12月から40年12月まで断続的に書かれたもので、著者も既に亡くなっているのではないだろうか。

いずれにしても、ウンコひとつを哲学的に語るその手腕には恐れ入った。

 

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