劇団創立五周年の記念事業として、演劇研究所付属機関として作られたのが俳優養成所。
第一回の募集要項を見ると。
経験と創意に基づく清新な教育方法により、将来俳優として、演劇、映画、放送の世界に志を立てようとする若い人々のために、必要な精神的技術的基礎をつくるのを目的とする。修業年限は三年。学力は新生中学卒業乃至は同程度と認められる者。賃金の保証はなし。
全国に123,000人以上の戦災孤児がいた頃の話しだが、入校卒業するには東大以上の難関に思えるが。
まず、選考試験として!
朗読、パントマイム、作文、口頭試問、常識問題、音感、リズム感、身体検査。
第一回の応募者235人に対し76人が合格。
この段階ではまだ序の口。
講師陣はそれぞれ専門家が就き。
一年目の科目。
文化史、日本文学、音楽史及び鑑賞、美術史及び鑑賞、心理学、生理学、言語美学、
音声学、音声生理学、演劇史、演劇概論、戯曲研究、外国語(英・仏)。
基礎訓練。
声楽、舞踊、体操。
演技実習。
物言う術、身振り表現術。
二年目。
戯曲を抜粋して基礎的な技術による試演。
三年目。
主に一幕物の作品を観客に披露。
養成所は17年5か月経った昭和42年3月、16期を持って解散、623人の卒業生を数え、各分野の道に進んだとあるが、然し、16期で623人卒業とは如何にも少ないようにも思えるが、年平均40人足らずという計算になる。
苦学の末、卒業した者の中には、今日、我々が知る名優が揃う。
まるで戦友のような仲間だろうが、年々亡くなる人も出てきましたね。
先年亡くなった平幹二朗さん、ライバルだった仲代さんはコメントを出され、
「いい競争相手でした。非常に悲しい。『台詞は歌え、歌は語れ』と言われているのですが、平さんは、歌うように台詞まわしをするのが、とてもうまい役者でした」
ところで現在、俳優業に勤しむ人の中には、元歌手、お笑い芸人、またはタレントという人も居るが、養成所学校の卒業生は、一体、彼等をどう見ているのだろうか。
ところで、千田是也氏にはがこんなエピソードがある。
「ニ日の夜、朝鮮人が大挙して日本人を襲うという噂を聞いて、我々もただ遊んでい
そこを、のこのこ上がって線路に入って、来ないかな、来るのかなと思って見て
たら、そうしたら向うの原っぱから自警団の提灯がこっちの方へ向かってくる。
そしたら『歴代天皇の名前を言え』と言う。まだ、中学出たばかりだから覚えて
いましたけど相当のところまでは、だけど段々出て来なくなったら、やられるん
じゃないかと、何しろ、竹槍は突くし、まさかりを頭から振り上げている」