昭和18年11月に東京で大東亜会議というのがあり、日本側代表として東條首相、南京国民政府は蒋介石と決別した汪兆銘、インド代表は国民会議派のガンジーと、こちらも袂を分かってシンガポールで自由インド仮政府を樹立したチャンドラ=ボース。
因みに汪兆銘は翌年、名古屋の病院で死去している。
ところで、3年程前のニュースで、チャンドラ=ボースの死を巡って新事実という記事が載っていた。
と言っても、死そのものの疑惑ではなく事故が起きた経緯についての話で、終戦3日後の18日、台湾経由で大連に向かい、旧ソ連に亡命を希望したボースら総勢14人が搭乗した飛行機が、台北の松山飛行場を離陸直後、左側プロペラが折れ、エンジンも落下して墜落炎上。
操縦していた滝沢少佐と四手井綱正中将、他仕官1名が即死。
ボースは全身大やけどで病院に運ばれたが手当の甲斐なく死亡。
新事実とは、整備兵が重症を負いながらも生存しており、事故から70年以上も経過した現在になって事実を述べたとある。
「松山飛行場での離陸前点検では異常はなかった。ただ、台湾までは第3航空軍の准尉が操縦したが、離陸直前に「搭乗していた上官の一人が『俺が操縦する』と言って代わった」
「交代した上官は知らない人だった。以前操縦していたと話していたが、司令部の命令もなく代わるのはあり得ない」
とも言っている。
事故の原因としては定員オーバー、または荷物の積載量が相当重かったうえ天候も悪く、プロペラやエンジンへの負担が大きかった可能性があるという。
「不慣れな人の操縦でさらに負担がかかり、折れてしまった可能性がある」
つまりは「俺が操縦する」と言った上官こそが滝沢少佐ということになる。
それにしても90を過ぎた元整備士が、70年以上もの時を経て新証言とは驚いた!