何とも気の重たくなる本だ。
資料には在中国公館と本省の間の往復電報や機密費の領収書が収録されており、謂わば、この領収書から外交機密関係を掘り起こしていくという遠大なもので、まったくご苦労なことだ。
こちらも何から書き始めたらいいか難しい。
「近時政府並陸軍中央当局の言として発表せらるる所極めて不謹慎にして却て世人の誤解を招き将来の対策を誤り軍士卒の士気に影響する所甚大・・・」
このような事が、当時、盛んに言われていた関東軍は独立するのかという噂の基になっているのかも知れない。
今日、よく知られているようにこれは関東軍の田中隆吉少佐が仕組んだ謀略で、この間、機密費の支出項目は増え、事変下、日本公使館の警備をフランス軍に頼んだために増大、日本軍が劣勢に立たされていた証拠でもある。
3月3日、白川軍司令官の戦闘行動中止命令でようやく停戦となり、更に停戦の条件を具体的に詰めようとしている最中、上海の新公園で白川大将が演説中、式台に爆弾が投げ込まれ日本人が重軽傷を負った。
天皇誕生日のテロ事件で、白川大将の傷は思わしくなく翌月逝去。
5月5日、日中両軍は停戦協定に署名。
その結果、両国はどうなったか。
他方で現地軍による華北分離工作が功を奏し、国民党政府内で親日派の勢力が没落、日本の外交当局は、防共イデオロギーの結びつきによる、日中の間接的な相互接近に期待を寄せていたが、国民党ではもはや日本に対する不信感が募っていたのだろう。
「欧米派の勢力強し、九分九厘抗日なり、国家意識は熾烈なり」
一方、連盟から派遣されたリットン調査団は白川大将が停戦命令を発した3月3日、宮中午餐会が開かれ、それ以降、何処に行っても接待外交が続き、莫大な経費は機密費から出されている。
曰く。
「日本の対外政策があまりにも国内政局の動きや、国民世論によって左右されすぎているとの印象を受けた」
これは、当時のマスコミにも責任があろう。
よく言われていた、
「満州さえ手に入ればな」
という民衆の声にも後押しされていたと思うが。
例えばこんなことが書かれている。
大衆は新聞に連戦連勝の情報だけでなく、安否確認の情報を求めた。身近な人々が満州に兵士として赴く。彼らの安否を知りたかった。しかし部数が急伸する新聞の報道姿勢は扇動的になっていく。新聞は大衆の戦争熱を煽るようになる。
部数を増やすため、各社は勝ち馬に乗るように大衆を扇動して行ったということだ。
10月2日に提出された報告書では、
「法律的には完全に支那の一部分なるも」
満州国政権を、
運命の盧溝橋の一発は1937年7月7日。
本書は本来、膨大な機密費の領収書を基に、その外交と軍事の両方から盧溝橋事変に至る最悪のケースを回避出来なかったものか、その可能性を探っているのだろうが、私にはこの民族的対決が必然的なものだったのかどうか答えなど出しようがない。