その時代を体験しないものが読書によって歴史を理解しようとする。
それがいかに難しいことか体感させるような本だった。
今ではその名を知る人もあまり居なくなったかも知れぬが昭和の初期にはこのように言われた人だった。
「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」
「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」
昭和十年、世に言う『相沢事件』で暗殺された陸軍きっての逸材、永田軍務局長とはどのような人物であったのだろうか。
この事件に興味を持ってから何十年にもなるが私の持つ蔵書の中に局長室で惨殺された直後の永田少将の鮮明な遺体写真がある。
永田軍務局長は隣室に逃げようとしてドアの所で背中から軍刀で串刺しにされた。
倒れ込んだところを頭部と首にとどめの一撃を加えられている。
下手人は相沢三郎陸軍中佐。
統制派の領袖だった軍務局長を皇道派の相沢中佐が白昼、それも堂々と軍務局長室で暗殺したわけで健軍以来の大事件だった。
永田少将の考えは「総動員体制の確立」「国民と共にある陸軍」「軍民一致」とこのように聞くと単純に戦争遂行派のようにも聞こえるが当時の世界情勢にあっていずれ来るであろう総力戦に備えて国民と共に備えだけは万全にしておこうというのが彼の思想だったようだ。
しかし興味を引くのが関東軍高級参謀の天才と言われた石原中佐との関係。
至宝と天才の関係はあまりしっくりいっていなかったようだ。
関東軍の積み上げた既成事実の前に引き摺られる軍中央と政府。
その中に永田も居たわけだが、結果的に関東軍の行動を追認していく現実派の永田の考えをこの紙面で紹介するのは実に難しい。
皇道派と統制派の対ソ戦に関しての観点の相違から、安易な開戦を強く戒める永田。
永田は「最後まで外交工作によって極力、戦争は避けなければならない」と思っていたらしい。
その反面「戦時のことは、平時に如何に準備しておくかが肝要である」と説く。
何事にも先見の明があった永田だが皇道派にとって憎しみの連鎖の頂点にあったのが永田の存在そのものだったのだろう。
両派の怨恨を決定づけたのが教育総監、真崎甚三郎大将の辞職。
林陸相から罷免を告げられた真崎は激高。
その裏で糸を引いていたのが永田だと確信した皇道派の相沢中佐は遂に暗殺を決行したというわけだ。
しかし陸軍の統制を信条の基柱とした永田が不本意な急逝を遂げなければ本当に或は日米戦は回避出来たのだろうか。
確かにあり得ない話しではない。
有末精三はこのようなことを後年言っている。
「私たちにとり、永田さんが亡くなったということは、真に残念なことであった。果たして彼が総理大臣をやることになったか、それは判らないが、日本にとっては軍を統制する力をもった永田さんを失ったことは痛手であった」
ならば本当に大東亜戦は回避できたのか、永田の力を持ってすればそれは可能だったのか永遠の「if」になってしまった。
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