愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

煉獄 女たちの虎ノ門事件 岩田 礼

 
よく思うことだが、ここ1世紀ぐらいの間、世間の耳目を集めた重大事件関係者の遺族などはその後、どのような人生を歩んだのか興味がある。
以前、NHKで珍しく大逆事件を扱った番組を採り上げていた。
全国で多数の人が逮捕され26人が起訴された大事件だが、中でも和歌山県新宮市では最も多い6人が起訴されている。
罪名は大逆罪。
裁判は大審院で一審のみ上告なし、証人出廷も許されず僅か一ヶ月で結審。
熊野地方の逮捕者6人は全員死刑
 
6人は逆賊となり、家族や親族は地域社会から排斥され苦難の1世紀を辿ることになる。
それは想像に余りある差別を受けたことだろう、同じように大津事件の津田三蔵の家族、加害者ではないが大杉、伊藤野枝の遺児、そして虎ノ門事件の難波大助の家族と、その後どうなったのか。
 
古本市で見つけたこの『煉獄 女たちの虎ノ門事件』は、元新聞記者の岩田礼という人が書いているが、奥付を見ると初版は95年。
この著者には見覚えがあり、以前『虎ノ門事件と難波大助』という本を読んだことがある。
こちらは初版が80年なので、15年後に続編が書かれたことになる。
 
虎ノ門事件と難波大助』は頗る難儀な本で、裁判記録も豊富に引用しながら事件の経緯全般を探っていく、将に新聞記者ならではの筆致で克明に全貌を抉り出している労作だった。
打って変わって『煉獄 女たちの虎ノ門事件』は、小説仕立てで読みやすいのだが、続編もノンフィクションで書いたほうが良かったような気がするのだが。
虎ノ門事件とは何かを説明すると長くなるので省略するが、当時の号外からそのあらましを抜粋する。
 
「十二月廿七日午前十時四十五分、摂政殿下議会開院式ヘ行啓ノタメ、虎ノ門外御通過中、一凶漢(日本人)、仕込杖銃ヲ発射セシモ、殿下ニハ全ク御安泰ニアラセラレ、ソノママ議院ニ臨マセラレ、滞リナク午後零時十分、御無事赤坂離宮ニ還啓アラセラル。供奉員一同マタ無事ナリ。凶漢ハ射撃ト同時ニ、直チニ現場デ捕縛サレタリ」 
大正十二年十二月二十七日・東京日日新聞号外。
 
日付を見れば分かるように関東大震災からまだ4ヶ月も経っていない。
この事件を受けて山本権兵衛内閣は直ちに総辞職。
犯人、難波大助は長州の人で、凶器に使った「仕込杖銃」は、即ちステッキ銃のことで伊藤博文が明治5年に遣欧使節団の副使としてイギリスへ渡ったおり買い求めた護身用の銃だった。
 
伊藤家と難波家は遠縁にあたり難波家の祖先は戦国時代まで遡る名門で、秀吉の中国攻めで有名な備中高松城の水攻めの時、城主清水宗治は城兵の餓死を救うため切腹して降伏、その弟が難波家の祖先、難波伝兵衛宗忠となるらしい。
 
幕末には勤皇家として活躍した高杉晋作桂小五郎周布政之助らと行動を供にした難波伝兵衛周政(かねまさ)の顕彰碑まで伊藤博文の染筆で建てられるほどの名家だった。
また大助の父、作之進は事件当時は衆議院議員で、四男として生まれた大助は父とそりが合わず、ことごとく反発しては家出を繰り返し左派的傾向の思想を持つようになる。
 
名門ゆえに親戚縁者も多く、この事件を契機に一門は没落。
当主、作之進は大正十三年十一月十七日から徐々に食を断ち、翌年五月二十五日、餓死して果てる。享年61歳だった。
大助の処刑は大正十三年十一月十五日。25歳。
 
小説は大助の妹安喜子の視点で描かれているが、前作の徹底した調査に比べると、やや小説化が過ぎる感が強い。
因みに安喜子は昭和57年12月23日に76歳で没している。
それはともかく、凶器のステッキ銃は難波家の家宝とされていたものだが事件後はどうなったのだろうか?
 
ポチッ!していただければ嬉しいです ☟