戦後、二・ニ六事件関係の著書を多く残した作家に河野司という人がいるが、それもそのはず、この人の弟が河野壽大尉で事件首謀者の一人。
当日、部下7名を率い2台の車に分乗、一路、湯河原に向かった。
早朝の5時頃に着いた8人は即座に別館に押入り警護に当たっていた皆川巡査を拳銃で脅し牧野伯の部屋に案内するように命じた。
しかし巡査はその途中、振り向きざまに河野大尉を撃ち、大尉も応戦して巡査は死亡。
自身も重症を負い、計画を諦め旅館に火を放ち現場を離れた。
牧野伯は逃走したが、大尉は東京第一衛戍病院熱海分院に入院。
面会に訪れた兄に自決用の刃物を密かに持参するよう依頼。
その兄こそが著者の河野司氏ということなる。
その後、大尉は翌月の3月6日、院外の庭で血だらけの状態で発見された。
割腹後に頸動脈を突いており、応急処置をしようと駆け付けた医師に対して大尉は、
「やめて下さい。死なせて下さい」と言った。
大尉が事件から8日後に認めた遺書は、死の前日に計3通が所属先の飛行学校教官に託され、兄も遺書を書き写していたが、どうしたわけかその後、直筆の遺書は一時行方不明になった。
しかし栃木県内の女性から光風荘保存会に寄せられ、即ち旧伊藤屋旅館別館に現在は自決に使った果物ナイフと共に展示されているらしい。