愛に恋

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苦悩の旗手太宰治 杉森久英

 
太宰関連の本はこれまで何冊も読んでいるが、この本には今まで知らなかったことが書かれていて少し驚いた。
著者の杉森久英という人は近年、テレビドラマでも話題を呼んだ『天皇の料理番』の作者でもあるが伝記文学の名手としても名の知れた作家で既に故人となっている。
 
本作が書かれたのは昭和42年というからかなり昔の本になるが、なるほど、当時にあってはまだ太宰本人を知る人が多く存命していた。
太宰は六男坊だが杉森氏は冒頭、まだ健在だった津島家の長男と次男にインタビューを行っている。
 
戦後没落したが太宰の生家、つまり現在の斜陽館は持ち主が替わり以前は旅館として営業されていた。
その家を次男の英治氏が案内する場面が出てくるが、さすがに嘗て読んだことのない実録で面白い。
 
昭和42年といえば情死事件からまだ19年しか経っていないわけだから太宰本人を知る関係者が多く存命していても不思議ではない。
驚いたというのは著者は戦前、編集者という立場で太宰と面識があり、それをこの本で初めて知った。
 
晩年、太宰は『如是我聞』の中で文壇の大家、志賀直哉批判を展開しているが、そもそものきっかけは、ある雑誌に掲載された対談集。
出席者は志賀直哉佐々木基一中村真一郎だが、席上、志賀が『斜陽』批判。
その記事を太宰が読んで噛み付いたわけだが、この座談会を企画したのが当の杉森久英氏であった。
結果として杉森氏はこう書いている。
 
「私は困ったことになったと思った。志賀さんにも御迷惑をかけたし、私自身も愉快ではない。先方が口ぎたなく罵って来たからといって、志賀さんも同じ口調で罵り返すわけにもゆくまい。太宰だって、言うだけ言って、気がすんだというものでもあるまい。子供の喧嘩ではあるまいし、言っただけの責任は残るのである。太宰はこの決着をどうつけるつもりなのかと、私はしばらく彼の出方を注視することにした」
 
そして決着も曖昧のまま太宰は入水。
杉森氏と太宰の間にこのような経緯があったわけだ。
 

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