今迄、自称
好角家を名乗って来たが、いやはや、全くの勉強不足を痛感させられた1
しかし、この時点で既に満32歳。
身長195㎝、体重160キロの巨漢。
(注:ウィキとは違う説になるが身長、体重、生まれは本書に従う)
記録によると男女ノ川の成績は大関最後の場所昭和十一年一月場所が最盛期で横綱昇進後は下り坂で後輩双葉山にも全く勝てなくなってしまった。
世は双葉山時代の始まりで同場所六日目に玉錦に破れて以来全勝街道まっしぐら。
柳橋芸妓の間では「お互いに双葉山を犯さるように」と双葉関を守る会が出来たというから驚く。
余談だが戦前の相撲協会のことは少し組織が煩雑で分かり難いため詳細は知らぬ。
協会が東西に分かれていたことは知っているが東京相撲協会と大阪相撲協会が合併した最初の場所が昭和二年一月場所らしい。
余談を続けるが昭和十三年十二月の巡業地が大阪阪急前とあるが、はて、現在ではどの辺りを指すのか、そんな所でやっていたなんて!
ところで、何の為に数ある横綱の中から男女ノ川の伝記本が書かれたかといえば実に風変わりな人生を送ったことにある。
すっかり弱い横綱として定着してしまった男女ノ川は足腰の鍛練のため横綱では初めて自転車通勤に切り替え周りを驚かせた。
それも通常は24インチから26インチが普通だが男女ノ川のは40インチの特大、そんな自転車があるのか?
その後はマイカーで自らが運転して国技館に通ったとあるから珍しい。
さて、興行が15日制になったのは十四年五月場所からで男女ノ川の引退は十七年春場所。
しかし、今日の今日まで私は一代年寄の元祖は大鵬だとばかり思っていたが違ったわけだ。
そして、あろうことか十月限りで理事職を辞め菊池寛の紹介で中島飛行機会社青年学校の教官に採用される。
更に農業を営み終戦後の二十一年四月、何と衆議院選に立候補。
本人は当選を信じていたようが見事に落選、結局、二度の立候補で共に落選し持ち金300万円を使い果たし、呆れた妻と息子は出奔した。
独り気楽になった男女ノ川は保険外交員、土建業、金融業、私立探偵と転職。
挙句には二十世紀フォックス社の映画『タウンゼント・ハリス物語』という作品でジョン・ウェインの相手役に抜擢。
あまり聞かない映画だが一度見たいものだ。
そしてNHKの『鐘の鳴る丘』にゲスト出演したのを最後に公の場から姿を消した。
私は文字通り巨人・大鵬・玉子焼きの世代だが、昭和40年頃というと柏鵬時代に翳りが出てひとり、大鵬時代となっていたが佐田の山が頭角を現し横綱に昇進。
時に理事長は時津風(双葉山)で年来の懸案だった部屋別総当たり制が導入された年でもある。
それを聞いた時津風理事長始め協会から見舞金として32万5000円の金銭を受け取った男女ノ川は同室者の誘いもあって競艇で25万円ぼろ敗けしてしまった。
明けて44年2月、戦前から男女ノ川のファンだと言う野鳥料理店を営む酒井米太郎という男が訊ねて来て生活に不自由しているならウチへ来て住み込みで働かないかと誘い水を向ける。
衣食住に不自由はさせないから下足番みたいなことをやってくれればいいと。
それがこの本のタイトルにもなった『下足番になった横綱』ということになるのだ。
そしてその日、昭和46年1月20日、訪ねて来たクリーニング家の店員が部屋で倒れていた男女ノ川を発見。
死因は脳溢血、67歳の生涯だった。
男女ノ川は土俵上より外伝で名を成した人物で、とかく第一号が多い。
大横綱双葉山の影に隠れて目立たない横綱だったが、どこか悲哀に満ちた波乱の生涯は、いま一度クローズアップされ巷間に上ることを期待した。