愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

愛情69

              f:id:pione1:20190510091810j:plain

愛情 55

 はじめて抱きよせられて、女の存在がふはりと浮いて、
 なにもかも、男のなかに崩れ込むあの瞬間。

 五年、十年、三十年たつても、あの瞬間はいつも色あげしたようで、
 あとのであひの退屈なくり返しを、償つてまだあまりがある。

 あの瞬間のために、男たちは、なんべんでも恋をする。
 あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食ひ、
 生きてきたかのやうに。

 男の舌が女の唇を割ったそのあとで、女のはうから、おずおずと、
 男の口に舌をさし入れてくるあの瞬間のおもひのために。

これは詩人金子光晴が昭和43年に上梓した『愛情69』の55番目の詩。
主に女性との性愛について書かれた69編の連作詩で、確かな筆致で男女の性について確信を突き、その艶めかしさが伝わるような力作。
この本は世に1500部しか存在せぬ先ずもって入手困難な書籍だとか。
 
その最終章「愛情69」はこれ。
 
   僕の指先がひろひあげたのは
 地面のうへの
 まがりくねった一本の川筋

 外輸蒸気船が遡る
 ミシシッピイのやうに
 冒険の魅力にみちた
 その川すぢを
 僕の目が 辿る。

 落毛よ。季節をよそに
 人のしらぬひまに
 ふるひ落とされた葉のやうに
 そっと、君からはなれたもの、

 皺寄ったシーツの大雪原に
 ゆきくれながら、僕があつめる
 もとにはかへすよすがのない
 その一すぢを
 その二すぢを

 ふきちらすにはしのびないのだ。
 僕らが、どんなにいのちをかけて
 愛しあったか、しってゐるのは
 この髯文字のほかには、ゐない。

 必死に抱きあったままのふたりが
 うへになり、したになり、ころがって
 はてしもしらず辷りこんでいった傾斜を、そのゆくはてを
 落毛が、はなれて眺めてゐた。

 やがてはほどかねばならぬ手や、足が
 糸すぢほどのすきまもあらせじと、抱きしめてみても
 なほはなればなれなこころゆゑに
 一層はげしく抱かねばならなかった、この顛末を。

 落雷で崩れた宮観のやうな
 虚空に消えのこる、僕らのむなしい像。
 僕も
 君も
 たがひに追い、もつれるようにして、ゐなくなったあとで、

 落毛よ、君からぬけ落ちたばかりに
 君の人生よりも、はるばるとあとまで生きながらへるであらう。
   それは、しをりにしてはさんで、
   僕が忘れたままの、黙示録のなかごろの頁のかげに。
 
> 僕の指先がひろひあげたのは
 地面のうへの
 まがりくねった一本の川筋

 
何を云わんとしているか。
つまりSEXの後に陰毛を拾い上げたと言っている。

> その川すぢを

は、曲がりくねった陰毛のこと。
それをミシシッピー川を冒険したように例えている。
詩人に求められるのは大局的な観察眼。
例え性愛についてでも冷静な筆致で読む側を納得せしめる技量が必要だ。
相共通した性体験を紙面の上にばら撒いて見せる。
今日尚、人気の衰えぬ金子の実力は類稀な“女”への観察力。
 
然し、私が驚くのは『愛情69』の読み方で、“69”とは単なる番号に過ぎないのかと思っていた。
それを“69番”で終わらせているのはSEXがらみの「シックス・ナイン」に例えているからに他ならないと勝手に思い込んでいたがさにあらず
これこそは紛れも無く「あいなめ」と読むらしい。
あいなめか!
漢字に起こすと「相舐め」となるのか、或いは「愛舐め」でも意味は通ずる。
 
ポチッ!していただければ嬉しいです ☟