愛に恋

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ロッパの悲食記 古川緑波

 
古川緑波昭和36年の1月16日に亡くなっている。
もう大変な美食家でこの本を読む限り、仕事の話しや家庭のことなどは殆ど出てこない。
とにかく食べて呑んで、呑んで食べての食道楽。
 
人気絶頂の頃で、あまり金銭的に困った様子もなく戦時中、食糧難の時代でも食べること以外余念がない。
内容的には昭和十九年の日記を「悲食記」、エッセイの「食談あれこれ」、そして昭和三十三年の「食日記」と三章にわかれている。
 
私が同じような事柄を書いたとしたら、せいぜい昭和30年代からの話になるが、緑波の場合は明治の40年代ぐらいまで遡り、震災前の浅草十二階、戦前の街並みや食べ物、とにかく食い意地が張っている。
 
名古屋、大阪、神戸と緑波は食べ歩いているが、知らない時代の話は興味深く、出来ることならその場所に行ってみたい。
岡田嘉子水の江瀧子菊池寛、谷崎と連れ立つ相手も美食家だが、卓を囲む場面などは想像を掻き立てる。
 
緑波には膨大な日記が残されている。
全4冊からなる重厚な本で「戦前編」「戦中編」「戦後編」「晩年編」と出ているが、先ずもってこのような本を読む人は少なかろう。
ある小汚い古本屋に、その全四巻が置いてあるのを知っているが、何せ整頓の行き届かない店で、陳列場所は棚の最上段であるばかりか、其の前には山と書籍が積まれ、もう何とも感ともどうにかならないのか。
価格は高額で34,000円と貼り紙があるが、ともかく中身が見たいのだ中身が。
 
しかし緑波は自分が糖尿病であることを知っていながら、酒など軽く一升は呑み干し、比較的脂っこいものが好きで晩年は御多分に洩れず病との闘い。
それも覚悟の上の食道楽だったのだろうか。
 
昭和33年8月18日
 
「野中氏の招待で、昼、赤坂の南風荘。長崎料理。胡麻豆腐から、はじまる1コース。角煮はお代わり。飯のあと、冷しるこが出る。長崎料理の演出の面白さ。此の南風荘は、もと山田耕筰先生のお邸だった家で、庭など、むかしの山の手の家庭を思わせる。蝉の鳴き声も、山の手だ。ここの蝉は、標準語で鳴いている」
 
してみると関西のクマゼミは関西弁で鳴いているのか。
現在、この南風荘はどうなっているのだろうか。
没後半世紀余、緑波の知っている町並みの殆どが消滅したろうに。
 
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