愛に恋

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動乱の陰に 川島芳子自伝 川島芳子

戦時中、知日派として知られる、汪 兆銘なる人物がいたが国民党内にいたが、後に蒋介石と袂を分かって、1940年3月、南京に日本の傀儡政権である汪兆銘政権を樹立し主席となった。

然し、1944年、名古屋市にて病死してしまう。

その汪兆銘を表した伝記「人われを漢奸と呼ぶ」という本がある。

漢奸とは「かんかん」と読み、所謂売国奴のことで、捕まれば否応なく処刑されてしまうが、汪兆銘終戦を待たず病死したので死刑は免れた。

然し、本書の主人公川島芳子はそうはいかなかった。

「東洋のマタ・ハリ」「満洲ジャンヌ・ダルク」「男装の麗人」などと言われる、川島芳子自らが書いた自叙伝だが、彼女に関してはそれなりに知識があるので、新たに新事実でもあるのかと期待しながら読んだ。

本名は清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女で、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)という。

よく知られているように男装で軍服、自分のことは「僕」と呼んでいる。

それが日本名川島芳子になるきっかけは義和団事件で、芳子の父粛親王は、この時、紫禁城の警備にあたっていた川島浪速と出会い、二人は肝胆相照らす仲になり義兄弟の契りを結んだことに始まる。

その後、川島に付き添われ長野県の松本高等女学校にに聴講生として、毎日自宅から馬に乗って通学したという。

彼女が田中隆吉陸軍少将と関係があったとかなかったとかは本書には一切出てこないが、物語は終戦まで書かれていないので、いわば未完といってもいい内容で、彼女は清朝の復活を夢見、時に日本軍と提携し手本になるよう期待もし、支那を侮蔑するような態度を戒めるようなことも書いている。

ここからは蛇足だが、彼女を処刑に追いやったのは戸籍謄本で、そこが李香蘭と運命を分けた。

李香蘭は日本人でありながら中国名を名乗っていたが、川島芳子は中国人で日本名を名乗っていた。

しきりに獄中から川島に日本人であるように国籍を送って欲しいと言っていたが、結局それは叶わず漢奸として処刑されてしまった。

ところが、芳子は処刑を逃れて生き延びたという説が真しやかにある。

処刑後の写真は何故か顔を集中的に撃たれ、誰とも分からないようなものになっているが、実は身代わりだったと。

以前、テレビで生き延びた芳子を追跡した番組を見たが、確かにそれらしい証拠もある。

然し、今となっては本格的調査に乗り出すわけでもなく、謎のまま歴史の真実は閉じられるのだろう。