愛に恋

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伊藤晴雨 自画自伝 伊藤晴雨

挿絵画家だった伊藤晴雨という人については、今日、殆ど知られていない。

鏑木清方泉鏡花木村荘八永井荷風の名コンビのように、互いに刺激し合い、世に出る傑作を産みだすほどの相方に恵まれなかったということもあるが、清方、荘八のように公的な展覧会には一切興味がなく、芝居や風俗研究に、更には責め絵にと嗜好の範囲が広がり一層沈潜していってしまったのが原因と思われる。

責め絵とは「SM」のことで、縛られ苦痛に歪む女の表情などを見るのが、殊の外好きだったということだろうか。

縛るのは一般女性ばかりではなく、大正、昭和の大女優栗島すみ子まで縛ったというからただ事ではない。

一方、若い頃から芝居小屋に入り浸っていた晴雨は、新聞記者として劇評を書き始め、これが文学博士クラスの饗庭篁村らと並んで人気を博したらしい。

そんな中、現れたのが佐々木カ子(ネ)ヨこと、通称「お葉」と言われる女性。

その後、有名になった竹久夢二の女のことです。

記録によるとお葉の身長は五尺一寸五分というから154cmぐらいだろうか、そのお葉が晴雨の愛人になったというのが12歳といういうから小六の年齢になる。

現在なら後ろ手にお縄ということだが、当時としてはそれもありか。

 お葉の秘所まで描いたというから、やはりただならぬ関係なんだろう。

「微に入り細を穿って一線ものがさず、ヨニ奥底まで実物大の細密描写、三十巻」に及んだという。

劇評家としての晴雨の声望深まるに及んで、歌舞伎役者との関係も一層深まり、「先生」呼ばれるようになったらしい。

特に六代目尾上梅幸や十五代目市村羽左衛門とは親しかったとある。

歴史を見るには当時の風俗、感性などが大切だが、今も昔も晴雨の絵を求めて暗躍する愛好家が後を絶たない。

それが、一部の人によって脈々と晴雨の名を後世に留める所以になったと理解する。