まだ、青瓢箪のような世間の常識も分からぬ20歳のモヤシ男の私は、名古屋の朝日文化センター「現代詩講座」を受講したことがあった。
何でも先生は北原白秋の最晩年の弟子だそうで、意気込んで乗り込んで行ったのはいいが、やはり才能のない自分に気が付いただけの話だった。
受講しようと思ったきっかけは萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫などを読んで痛く感動したのが発端だが、然し、中原中也だけは文体が肌に合わず中断してしまって、今日まで1冊も完読したことはない。
然し、古書市で見かけた本書だけはやはり読みたいと思っ購入し、暫く埃を被っていたが、やっと読了。
中也の母、中原フクという人の両親は義父母で、子供のいなかった夫婦は兄の次女フクを養子に迎え、また婿養子を取って家の跡継ぎにしたが、フクに子供が6年も出来なかったため、諦めかけていたころに中也誕生となって、義父母の喜びは尋常ではなく、これでお家安泰、だがその後、立て続けに5人も男の子ばかりを出産したフク。
つまり6人の男児を儲けたわけだ。
子供時代の中也は母の言うことを素直に聞く、大変良い子で、勉強も常に主席で神童とまで言われていたとか。
それが大学へ進学するため東京に出てから、少しづつ風向きが変わってきた。
親の進言を聞かず、金の無心ばかりで一向に就職せず、フクの知らぬ間に年上の女と同棲、そして小林秀雄に寝取られ、女は中也の下を去って行く。
フクはその辺の事情を、あまり事細かくは知らなかったようだ。
生前、いろいろ問題の多かった中也は酒癖悪く、小柄の割には喧嘩っ早いところがあり、誰彼なしに揉めていた。
そんな中也でも子供可愛いさで、フクは言われるままに仕送りを続け、夫が軍医から転職した開業医なだけに、死後残された貯金もあったのだろう。
中也は30歳で亡くなるが、その年、昭和12年10月、これまでの生活を清算して国元に帰るつもりだったらしいが、結核性脳膜炎に罹りあっけなく死んでしまった。
それ以前に次男、三男と亡くしたフクは、今度は長男の中也を突然失うという哀しみに耐えて90歳を過ぎるまで生きる。
因みに中也の実家はフクの失火により、母屋が全焼し多くの遺品も焼けてしまい残念な結果になってしまった。
あれほど、息子の生き方に反対していたフクだが、中也がこれほど有名になるんだったら、もっと文学に対する理解をしてあげれば良かったと悔やんでいる。