芸術作品を紐解くに、先ずはベースに歴史ありということをつくづく思う。
何も知らず私小説を読んでいて、後になって、あの小説のモデルは誰々だったんだと知る事は多々あるが、その時点では既に内容を忘れているからして残念に思うことしきり。
本書には参考になることが多く書かれているが、セザンヌとエミール・ゾラが子供時代から30年来の親友だったのに、ある日を境に、交友関係が断たれてしまう。
そんなことは知らないので、原因が、ゾラの書いた『制作』にありという手掛かりから、幸いなことに、その『制作』が我が家の積読本の中にあること故、これこそ先に知っておいて良かったと言える見本のような例だ。
そもそもセザンヌとゾラの関係は、12歳の頃、虐められていたのをかばったセザンヌが、多勢の子供から袋叩きに合い、翌日、お見舞いがてら大きなリンゴ籠を持参したことから急速に接近し、セザンヌのリンゴも、この思い出から描かれているらしい。
まったく不思議な縁だ。
然し、1886年4月4日に出されたセザンヌの手紙を最後に、表面上二人の友情は断たれ、以後、永久に会うことはなかった。
若い頃に親密だった友人と袂を分かつということは、よくありがちなことだが、兄弟のように親密だったモネとルノワールの疎遠についても言及されている。
「私がルノワールと別れ、初期のプージヴァルやアルジャントウユの時代のように、画架を並べて描くようなことを、止めなければならなかったのは、私自身の個性を、完全に取り戻すためだった」モネもルノワールも、夫々世に認められはじめ、ルノワールはレジオン・ドヌール勲章を受勲したりした。モネは、あくまでも受勲することを拒否し続けた。あるいはこのことも、二人を疎遠にした理由の一つかもしれなかった。
賤しい私なら貰うな!
話は前後するがピカソが晩年を過ごした家は、家なんていうものではない。
壮大な城といってもいい。
著者は書いている。
それにしてもと・・・私は思う。こんな淋しい山間の村に、ピカソは晩年になってなぜ移ってきたのだろう。
まったくだ、出かけるにしても不便で、いくら億万長者といえども、敢えてこんな所の城を買わなくても。
そしてこちらがセザンヌが愛したシャトー・ノアール。
炭屋の持ち物だった、この建物を、買い取りたいと望んだが、持ち主が手放さなかったので、やむなく一部屋を借り受けて絵の道具を置き、生涯、この建物を愛したらしい。
そしてこれがセザンヌ家族の最後の家、ジャズ・ド・ブッファン。
作者はこの家を探すため悪戦苦闘したらしいが、あまり地元でも知られていないのか、間違った家を訪ね、頻繁に来る旅行客の質問に主が大変迷惑しているらしい。
ところでセザンヌはカミーユ・ピサロのことを私の師と言っているが、以前、私のブログでも一度カミーユの絵を掲載している。
http://pione1.hatenablog.com/entry/2020/02/01/103651
本書にはこのようにある。
ピサロと初めて知り合ったのは、セザンヌ22歳の頃である。親友ゾラの励ましにより、銀行家の父を説得し、絵の勉強をするためパリに出てきたセザンヌは、やはりゾラのすすめにより、アカデミー・シュイスに通うことになる。セザンヌはそこでピサロやアンブレールやギュメ等と知り合った。
その後、普仏戦争が終わりピサロと再会し、一緒に絵を描くようになり、ピサロの絵を忠実に見習って描いていくようになり成長していくセザンヌ。
更にピサロの紹介で医師ガッシェを知り、ガッシェの熱心な誘いによりオーヴェル・シェル・オワースのガッシェの家の近くに家族と共に移住する。
それはゴッホよりも18年も早い1872年もことなので二人の接点はない。
《オーヴェールのガッシュ医師の家》
セザンヌといえばサント・ヴィクトワール山だが、彼はなぜあんなにも沢山、山を描いたのだろうか。
その答えがゾラに宛てた手紙の中にある。
「マルセーユへ行く時、ジベール氏と一緒だった。彼のような人はものをよく見ているが、しかし見かたが教壇くさい。汽車がアレクシスの村の近くを通ると、東の方向にすばらしいモティーフが展開する。サント・ヴィクトワールとポールクイユの上の岩山だ。僕が『何と美しいモティーフだろう』というと、彼は『線が整いすぎてるね』と答えたものだ」
この時の感動が忘れられず描くようになったが、生涯に60点も作品を残した。
セザンヌの作品が俄かに注目され出したのは1895年11月のことで、56歳の時になっていた。
パリの画廊で初めての個展を開き、150点の作品が展示され、大きな反響を巻き起こした。
この作品を前にピサロ、ドガ、モネも夢中になったとあるから、セザンヌ、満を持してというところか。
しかし作品はともかくセザンヌには大きな欠点があり、友人を悩ませた。
それはピサロ、モネ、ルノアールでさえ例外でなく、時に彼らのことを罵倒する。
「軽度の精神異常をきたしている。何と悲しく残念なことだろう」
中原中也と同じような現象か。
一方、セザンヌの未完成作品が多いことは彼自身、こう述べている。
「ところで、70歳に近いほどの年齢になると、光明をもたらすはずの彩られた感覚が、逆に茫然自失の状態をひき起こし、画布を絵具で覆うことを許さず、物の接触点が細かくて見定めがたい。時には、物の境界線をたどることもできません。私の絵が完成されない原因は、ここにあるのです」
さらに、ある画廊主のアンリ・ドベルビルという人が自作本の中でこのように書いている。
セザンヌには、紙の白さを利用するという才があった。まわりの、いろいろな部分を、手つかずに残すというやり方である。彼はよく、色彩を幾重にも重ねることをした。セザンヌは私の両親に、よくこう言っていた。「人はそう思うかも知れないが、これは習作ではなく、完成された作品なんですよ」そればかりか、彼は晩年の作品には、しばしばあの洒脱さと、まるで絵具がプリズムであるかのような、色調の重なり合いが見られた。
なるほどね、余白を残すのは未完成ではなく完成されたものだと!
著者は付け加えて・・・。
複雑なモティーフを、どのように正しく掌握し、表現するか・・・セザンヌは終生努力を、惜しまなかった。妥協することなく、厳しく正確に、彼の言うところの「独自の小さな感覚」を表現しようと、苦慮したのである。晩年の絵に見られる多様性は、まさに、このためにほかならないだろう。
「独自の小さな感覚」というのはよく分からないな。
それにしても印象派の画家の初期は悲惨なものだ。
モネは画友のシスレー、ピサロ、ルノワールと同様に貧窮のあまり、住む処や食べることにも事欠くほどで、借金を払いきれず、やむなく夜逃げをしたり、家主に追い出されたりで自殺まで考えたようだ。
そして、ようやく認められだすと友人との疎遠が待っている。
だが、苦労の甲斐あって皆が有名になり、本屋の書棚を飾っている。
思えば素晴らしい仲間同士だったわけだ。
著者はセザンヌ恋しのあまり、何度も現地を訪れセザンヌの歩んだ道のりを自らも歩んでみたい一心で感動を胸に旅を続ける、私にとってはまったく理想的な旅姿だ。
人に歴史あり、軌跡を学ぶことの大切さをつくづく実感する。