愛に恋

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黄砂の籠城 上・下巻 松岡圭祐

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チャールトン・ヘストン主演の映画『北京の55日』は1963年制作とあるが、私がこれを見たのは、はて、いつ頃だったか。
40年程前だったような気がするが。
まだ伊丹十三の俳優時代で、映画では柴五郎中佐を演じていた。
柴五郎中佐に関しては村上兵衛の『守城の人-明治人柴五郎大将の生涯』という弁当箱サイズの本に詳しいが、これを読むのに随分苦労した記憶がある。
その柴五郎中佐が、欧米諸国に初めて日本人として名を知らしめた事件こそが義和団事変だった。
 
何しろ、東郷元帥より先に有名になったのだから凄い。
柴五郎は軍人としても異質の存在だった。
会津藩士、柴佐多蔵の五男として生まれ、会津戦争の時は僅かに八歳だった。
籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃するという特異な経験をし、賊軍の子供でありながら陸軍大将にまで昇進した唯一の会津出身だった。
 
生前は栄転に恵まれ数々の位階勲等を手にしたが、オーストリア=ハンガリー帝国の鉄冠第二等勲章、イタリア王国のサンモーリスエラザル勲章コマンドールなど各国の勲章も受賞している。
これらは義和団事件での功績を称えたものだろう。
 
柴中佐が清国公使館附駐在武官を命ぜられたのは明治33年3月。
複雑な清国情勢の渦中に駐在武官としての着任は、よほど優秀だった証拠だろう。
揺れ動く清朝にあって5月、義和団の乱が起こる。
相手は正規軍ではないため野蛮を極めた。
義和団が掲げるスローガンは以下のようなもの。
 
保清滅洋、興清滅洋、扶清滅洋、意味は読んで字の如しだが、謂わば排外主義で、日本では北清事変などとも呼ばれている。
次第に勢力を拡大していく義和団は各地でカトリックを襲撃、北京に集結する数万の義和団に対し、在外公館区域といわれる東交民巷に立て籠る925人の民間人と、それを護る400名ほどの11カ国連合軍。
在外公館区域は南北822メートル、東西936メートル。
完全包囲された連合軍総兵力の内訳は以下の通り。
 
イギリス軍 82名
アメリカ軍 54名
ロシア軍  51名
ドイツ軍  51名
日本軍 愛宕陸戦隊25名
 
総勢405名。
 
然し、援軍を乗せて来るはずの北京ー天津間の京津鉄道が義和団の襲撃に遭う。
多くのキリスト教徒を受け入れ、限りある弾薬と食料事情。
それまで控え目で目立たなかった柴中佐が立案した緻密な防衛計画に則った配備計画の基、籠城戦が行われる。
もし、援軍が間に合わず東交民巷が陥落した場合に待ち受けるものは、恐ろしい「八刀刑」という処刑があり得る。
「肢解の刑」とも呼ばれる清国の処刑のひとつで、順を追って説明すると。
 
全て体の左側から、最初はみぞおち、二刀目は上腕筋、三刀目は太腿、四刀目、五刀目は両肘、六刀目と七刀目が両膝、八刀目で首を切断という残虐な手法で落とされた首は晒される。
状況は義和団有利とみた清朝西太后は列強への宣戦布告。
義和団を取り締まるはずの官兵が敵側にまわり絶対絶目の窮地に陥る。
清朝の将校の写真があるので掲載する。

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怖ろしいイメージですね!

繰り返される襲撃。
次第に狭まる防衛ライン。
食料、弾薬と減り続ける中、果敢に防衛する勇敢な日本軍。
柴中佐を中心に援軍到着までの55日間を耐え忍ぶ壮大な物語だが、あくまでも史実に基づく話であってノンフィクションではない。
終わりに、当時、北京のイギリス公使だったサー・クロード・マックスウェル・マクドナルドは以下のように述べている。
 

「日本人こそ最高の勇気と不屈の闘志、類稀なる知性と行動力をしめした、素晴らしき英雄たちである」
 
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