度重なる発作に耐え、事件の真相を語らず沈黙を守り続けたのは再びゴーギャンとの生活を取り戻すためだったとか。
そんなある日、初めて絵が売れゴッホを喜ばせる。
1888年制作の『赤い葡萄畑』が400フラン、今の価格にして40万円ほどで売れたらしい。
ゴッホ、最後の70日間の始まりというわけだ。
ひたすら絵を描きたいと願っていたゴッホに、この間、何があったのだろうか。
彼が自殺を図ったのはオーヴェールに来て68日目の1890年7月27日。
しかし何故、頭や心臓を撃たずに左脇腹なんかを撃ったのだろう。
言われてみればなるほど、右利きのゴッホが左のわき腹を撃つ。
自殺をしようとする者がそんなところを撃つはずがない。
確実に死にたい人間が自殺する方法としては極めて不自然だ。
銃弾は右脚の付け根あたりで止まっている。
さらに不思議なのは凶器となった拳銃が今日に至るも発見されていない。
これは何を意味しているのだろうか。
普通、一発で死に切れなかったなら二発目も撃つはずだがゴッホはそれをせず、わざわざ1キロも離れた宿屋へ重傷を負いながら歩いて帰ってきた。
これは如何がしたことか、こんなことがありえるだろうか。
何故、ゴッホは宿屋へ戻って来たのか、そんなに苦しむ必要がどこにある。
弟のテオを呼ぶことを頑なに拒んだのは何故か?。
結婚して一児をもうけたテオは職場の画廊をクビになりかけている時期。
ゴッホの心配は、テオが家庭を思うあまりこれまでのように月150フラン送金してくれるかどうか、その一点にあったのだろう。
二人の往復書簡にはそれらのことが書かれ、いろいろ細かいことをテオに言っている。
遡って1890年の7月6日、ゴッホはパリのテオ一家を訪ねた。
テオの妻、ヨハンナの記述によればこうなる。
一家は子供の病気、テオの仕事や引越しのことで問題が山積。
その結果、以下のような推測が成り立つ。
今まで通り仕送りを期待するゴッホ。
仕事の問題を抱えるテオ。
ゴッホへの仕送りさえなければ、もう少し楽に暮らせると思うヨハンナ。
話し合いがやがて口論になりゴッホは席を蹴って帰る。
7月15日、テオ一家はオランダのヨハンナの実家に旅立った。
しかし、1週間後の7月22日、パリに戻ったのはテオ一人。
その後テオはゴッホに50フラン送金している。
家庭内に確執が生まれ、妻を実家に置いたままパリに戻ってきた。
追い詰められていたのはゴッホではなくテオだった。
兄の才能を信じる気持ちと家庭を思いやる夫としての責任感。
7月27日、意を決したテオは拳銃を携えゴッホの元へ向かう。
絶望したテオは兄に一目会って自殺しようとした。
両者、押し問答となり、テオが握っていた拳銃が暴発。
ゴッホは自殺を装うためテオに帰るように促す。
パリに戻ったテオに知らせが届いたのが28日。
急ぎ駆けつけるテオ。
然し、なぜか二人はその場に居た誰もが解からないオランダ語で話しを続けた。
ゴッホが死はその翌日。
テオは書いている。
「この苦しみは、ずっと長く僕につきまとうだろう。
そして一生忘れることができない」
その言葉通り、悲しみに押しつぶされたテオは体調を崩し精神を病んでいった。
テオが精神科病院で息をひきとったのは1891年の1月21日。
ゴッホの死から半年足らず。
近年、こんな本が発売された。
歴史ミステリー・ドキュメント、面白いジャンルだ、読んでみるか。