愛に恋

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栗林忠道 硫黄島からの手紙 栗林忠道

 
以前「なんでも鑑定団」に出演している鑑定士がこんなことを言っていた。
 
「物は欲しがっている人の所に集まる」
 
なるほど、確かに古本屋巡りをしていると探してもいないのに思はぬ書籍と巡り合うことがある。
まるで私を待っていたかのように。
何年前だったか梯久美子氏の『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』という本を読んだことがある。
確かアメリ駐在武官当時、内地の家族に送った絵手紙などが掲載されているもので、夫、父として几帳面で細やかな性格が随所に滲み出ていたような本だった。
 
しかし、本書は硫黄島赴任以降、内地の家族に送った手紙を前文公開したもので、縷々、繰り返し家族への細やかな心配事で全面綴られている。
また、当地の異常環境、夥しい蟻、蠅、蚊に悩まされ、水の補給が全くなく、雨水を貯め飲料水に使うなどしているが、肝心の雨が月に1度や2度という有様、更に昼夜の区別なく間断と続く空襲。
臆病で忍耐弱い私なんかは一月と持ちません。
 
「十中九分九厘迄は生還は期せられないと思う」
 
故に今後のことは家族相助け合い、実家へ疎開も真剣に考えてほしいと切望しているが、栗林さんの家族への思いが痛いほど分かります。
こんな文面もある。
 
「殊に又日本が敗戦になって米軍が関東平野に上陸でもすると云う場合、日本の混乱は想像に余りあるし、そうした場合お前達母子は一体どうなる?と考えると流石に心痛に耐えないものがある。どうかそうした最悪の場合もジット頑張り通して強く元気に生きぬいて下さい」
 
そのことが「人間の弱点かあきらめ切れない」と言っている。
サイパン玉砕、近い将来、ここ硫黄島にも敵は必ず上陸すると予想し鉄壁の陣地を日々構築しているものの、もし硫黄島が落ちれば東京空襲がもっと現実味を帯びてくる。
内地の人はまだ空襲の本当の恐ろしさを知らないと。
栗林さんは、おそらく日本軍に限って降伏などありえぬ話で、本土決戦があると思っていたのだろう。
 
断腸の思い、死んでも死に切れぬとはこのことで、空襲で一家離散する場合もあるから、三人の子供らにも預金通帳の番号を教えておいたほうがいいとこと細かい。
子供たちから来た手紙に関しても丁寧に誤字脱字などを指摘している。
 
「誤字脱字は其の人の素養、教育は勿論、人物、性格迄も窺われるもであるから絶対なくす様努めねばならないと思います」
 
私も反省しています
こんな記述も。
 
「年末の賞与が二六五〇円位と思う」
 
とあるが現在の貨幣価値ではどのぐらいになるのだろうか?
因みにこの時点で栗林さんは陸軍中将。
 
航空便がある度に手紙を書いていたのか、余程家族のことが心配だったのだろう、米軍の侵攻を前にいつ最後の手紙になるか気がかりだったはず。
最後の手紙となった日付は昭和20年2月3日で、米軍の総攻撃は16日から。
3日間で擂鉢山に落とされた爆弾は120トン、ロケット弾2250発、艦砲射撃38500発。
島にはもはや生物は存在しないとまで思われ、3日後に海兵隊は上陸。
 
アメリカ上陸部隊司令官ホーランド・スミス海兵中将は、
 
「作戦は5日間で終了する」
 
と豪語していたが、上陸した海兵隊は一歩も前進ならず。
電報には。
 
「損害は甚大なり」
 
最初の2日間で海兵隊員の死傷者は3600人以上。
戦史に残る硫黄島の戦いが始まり、戦い終わって日本軍の損害は戦死約19900名、戦傷者は約1000名。
対する米軍の戦死6821名、戦傷者21865名。
太平洋戦争で米軍の死傷者が日本側を上回った唯一の戦いだった。
 
3月16日、大本営へ決別電文を送り、栗林中将以下約400名は26日未明、最後の突撃。
白襷を肩にかけ軍刀をかざし「進め、進め」
 
最後の電文には!
 
戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ 兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス(略)
 
その翌日、陸軍大将に昇進。
戦後、軍事史研究家やアメリカ軍人に対し、
 
「太平洋戦争に於ける日本軍人で優秀な指揮官は誰か?」
 
と質問した際、General Kuribayashiと名を挙げる人が圧倒的に多いと云われている所以だ。
栗林さんの写真を拝見するに実に凛々しい。
戦後、生き残ったある軍人はこのように言っている。
 
「相手は上官だから敬礼したが、いとも気さくに声などかけながら答礼するを常として、春風たいとうたる風貌の中に颯爽とした気品があった」
 
あれほど御身大切にと願っていた家族、奥さんは99歳で天寿全う。
次女、長男とそれなりに長生きされたが長女は終戦の年の9月に16歳で亡くなられたとか。
因みに自民党の代議士、新藤義孝さんは栗林さんのお孫さん。
実に感動的な本だった。
 
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