愛に恋

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最終の花 小堀杏奴

 
初版は昭和26年11月25日、右は見開きの1頁目で曼珠沙華の絵が描いてあるが、敗戦後の事情もあるのかタイトルなんか万年筆で書いたような稚拙なもの。
サンフランシスコ平和条約の署名はこの年の9月8日で日本はまだ独立国ではない。
物がない時代、出版業界も厳しい台所事情だったのでしょうか。
小堀杏奴とは文豪森鴎外の後妻の二女。
作家の娘さんが著述家として活躍する例は日本には多いが文章もなかなかのものです。
 
「五六十年を經たと思はれる樅の大樹が一本、偉大な天才のやうに、孤獨を守って、永久に變らぬ、幾層にも重なったその綠葉を廣げてゐた」
 
 
「貧にやつれた天才畫家モディリアーニが空腹に堪へかねて、他處の家の戸口に出てゐる牛乳を盗んで飲んで、息を切らせて梯子段を駆け降りる姿のような」
 
人をよく観察し記憶力も良く読んだ小説の内容を巧みに覚えている。
一か月ほどかかってロマン・ロランの「ジャン・クリフト」八巻を読んだともある。
私の好きな木下杢太郎の詩を彼女も大好きだったらしい。
 
むかしの仲間も遠く去れば
また日ごろ顔あはせねば知らぬ昔と
變わりなきはかなさよ
春になれば
草の雨三月櫻四月すかんぽの花のくれなゐ
また五月には杜若花とりどり
人ちりぢりの眺め
窓の外の入日雲
 
杢太郎は大学の医学部の教授でもあり終戦の年に亡くなっている、これは人の限りない別離を直裁的に言い当てて素晴らしい。
また太宰のこんな言葉を小説の中から引用している。
 
「戀を始めるとても音樂が身にしみますね。あれが戀の病ひの一番たしかな兆候だと思ひます」
 
そんなもんだろうか?
因みに太宰と杏奴は同年生まれでひと月も違わないらしいが一度の対面もなかった。
尊敬する中勘助のこんな詩も紹介している。
 
 わかれきて 鄙にしをれば
 ゆきずりの 人ばかりかわ
 田のもにたつ
 白鷺さへも しらさぎさえも
 きみかとおもふ 戀のすさびに
 
これは友人のお墓詣りに来たときの詩らしい。
本当に豊かな感性だ。