というか文壇の枠外で屹立しているような作家のように思う。
菅原千恵子著『宮沢賢治の青春』という本を読むと、唯一人の親友保阪嘉内との宗教観の違いから袂を分かつ場面が書かれているが賢治には耐え難い別れだったようだ。
更に最愛の妹を亡くした賢治の生き様をひとり長命した弟清六さんが長年に亘って発表して来たものを纏めたもが本書ということになる。
しかし舐めてかかるとしっぺ返しを喰らうような本で、賢治の思想、宗教観は難しい。
清六さんは賢治より8歳年下だが本人しか分からないような話しが随所に出て来る。
例えば父との対立では賢治が良からぬ思想にかぶれるのではないかと心配している。
賢治は手紙に書く。
父上には小生の主義などの危き方に行かぬよう危険思想などはいだかぬやうにと御心配のことと存じ申し候。
御心配御無用に候、小生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁を以って小生の全信仰と致し候。
清六さんの目撃談としてこんなことも書かれている。
その年の正月に26歳だった兄は、念仏とお題目のことについて、父と激しく話し合った後で東京へ逃げた。
父親は内村鑑三全集の編集に精魂を傾けた斉藤宗次郎という人と並々ならぬ昵懇の間柄で幼い賢治は次第に宗教の影響を受けていたようだ。
日本救世軍の母、山本軍平夫人機恵子を知ったことも大きく、その精神が後年の作品に表れているという。
賢治が天才なのかどうか私には分らぬが、しかしタイトルには惹かれる。
しかし詩の創作となるとどうだろう。
はっきり言って何を書いているのか解らない。
肌膚を腐植と土にけずらせ
むかし 達谷の 悪路王
因果交流電燈
四次延長
故井上ひさしさんは生前こんなことを言っていた。
話は逸れるが、当ブログで再三書いてきた戦災による被害は宮澤家も他人事ではなかった。
空襲のあったその日、アトリエを焼き出された高村光太郎が訪問しており消火活動を手伝ったとある。
戦災は我が国の貴重な文物、建造物など多くを焼き払い全く忌々しい!
弟の清六さんのように賢治も長生きしたら作品も新天地を求めて雨にも負けず風にも負けず東奔西走の末、更なる名作を生み出したのだろうか。
死の床で父親に、
「何か言い残すことはないか」
と問われた賢治は難しいことを言っている。
「国訳妙法蓮華経を一千部お作り下さい。表紙は朱色、校正は北向氏、お経のうしろには『私の生涯の仕事はこのお経をあなたのお手もとに届け、そしてその中にある仏意に触れて、あなたが無常道に入られますことを』ということを書いて知己の方々にあげてください」
この遺言は果たされたのだろうか。