外国の曲をカバーすることもあったが両作曲家が目指すは和製ポップス。
自然、私の感性も洋楽に傾いていった。
しかし、片や美空ひばりの『柔』村田英雄の『王将』が大ヒットし、アニメソング以外子供が歌う曲とてない当時、あちらこちらで幼いガキが柔、王将を歌っていた。
そんな昭和40年だったか、突如、一人の好青年がエレキなる楽器で、それまで聴いたことのなかったサウンドを奏で瞬く間に一大ブームを巻き起こした。
生意気にも私は一早くエレキ・サウンドに魅了され、歌謡界はGSとカレッジ・フォークの時代に突入。
水を得た魚のように私は彼らの曲を聴きまくっていた。
岡林の曲で知っているのは『山谷ブルース』と『チューリップのアップリケ』だけ。
高石ともやは『受験生ブルース』のみ。
同時代人としては中川五郎、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂、早川義夫、六文銭、遠藤賢司、加川良、西岡たかし、下田逸郎、あがた森魚など日本フォークの草分け的存在の顔ぶれがいるが、当時、私が聴いていたフォークと言えばフォーク・クルセイダースぐらいのもので他の人には殆ど関心を示さなかった。
こんな本を買っておきながら何だが、実は私、高田渡の曲を知らない。
というか聴いてこなかった。
初めてフォークに触れたのは兄の持っていたブラザーズ・フォーのレコードを聴いた時、バンジョーの音色に心惹かれたと書いているがビートルズやボブ・ディランにはまったく興味を示さず、何と、影響を受けた人物はウディ・ガスリーとピート・シーガー、ビートルズ教の私とは感性が合わないはずだ。
しかし、読み進めていくうちに三つの接点を見つけた。
サザンオールスターズを聴いていた。
イタリア映画『イル・ポスティーノ』を観た。
因みに奥さんは長谷川一夫とリノ・バンチェラのファン。
ところで高田渡は団塊の世代、昭和24年の元旦生まれ、母の乳を受け付けずヤギの乳で育った変わり者で、名前の渡も「三途の川を渡る・・・」から取ったと父が言っていたと書かれているが嘘のような本当の話しなのだろうか。
幼少時代から貧困生活は続いていたようで京都に移っり住んだ頃は三条界隈の喫茶店をハシゴして一日10件ぐらいの店でコーヒーを飲んでいたというから、これでは胃が持つまい。
「貧乏を知っているのはいいが、慣れしたしむな」
「贅沢は知ってもいいが、慣れしたしんではいけない」
これが実父の口癖で、高田渡の生涯は酒とツアーの連続、殆ど全国くまなく渡り歩き、その結果、裕福になったのかどうか知らないが妻子には逃げられた。
酒席で嫌う話しとして、こんなことが書かれている。
「俺も昔は学生運動をやっててさあ」
「フォークソングか、懐かしいな。俺もやってたよ」
余談だが採血をすると肝臓の健康度を表す数値、γ‐GTPというのがある。
平均値は12~87だが、高田渡の場合、1000ぐらいあったというから、如何に日々のアルコール量が多かったかを物語っている。
入退院を繰り返す、それにしても寿命を縮めるのを知っていながら酒を止められなかったというしかないだろうに。
それでも一度だけ病院から抜け出したいと思ったことがあるそうだ。
阪神の大震災があった時、同じ入院患者の老人に尋ねたらしい。
「震災で大勢の方が亡くなったみたいですね」
「ああ、そうですか。そのとき私は尋常小学校の三年生でした。あなたはいくつでしたか?」
「・・・・・」
関東大震災と間違えているのである。
その最期は平成17年4月16日、ツアー中の北海道で逝去、56歳と意外に若かったと聞いて驚いた。
あの風貌から想像するに既に60は越えていたとばかり思っていたので。
浅川マキも平成22年、ライブ公演で名古屋滞在中に亡くなったが、歌と酒に生き、ライブ中の旅先で淋しく死んでいく。
いつかこんな時が来るだろうと本人たちは予想していたと思う。
旅から旅への旅鴉。
裏淋しいと言っては失礼か。
好きな酒を呑み、好きな歌を唄って死ぬなら本望だと返ってきそうな気がする生涯だったか。
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