その一部始終は長州藩の正史として維新後、『防長回天史』という名で編纂されたが、これはまさに勝者の歴史であって、同じ長州人でありながら悪者扱いされ維新まで生き残れなかった者たちの歴史は抹殺されてしまった。
『防長回天史』は天保年間から廃藩置県までを取り纏めた本だが、この間、どれだけ多くの長州人が死に追いやられたことか。
例えば、長井雅楽。
開国論者として『航海遠略策』なるものを藩主に建白。
航海遠略策とは尊王攘夷とは逆の思想で公武合体を旨とし、諸外国との接触は避けられない現実であるから、この際、開国して国論を纏め国の発展に尽くすべきだという意見で、今日から見れば至極正論だが、これに激しく反発した急進派の久坂玄瑞らに迫られ腹を斬らされた。
激怒した長州勢は七月十九日、二千の軍勢を率いて上洛、御所に迫る。
長州は惨敗し一夜にして朝敵になってしまった。
その後、イギリス、フランス、オランダ、アメリカを相手に下関戦争が起き壊滅的打撃を被る。
吉川の提案は全面戦争を避けるために恭順の意を表し蛤御門の戦いの責任者として三家老の首を差し出すというもの。
この本の主役、椋梨藤太が歴史の表舞台に登場するのはここからである。
がしかし、肝心の長州毛利敬親については、あまり賢者という評判を聞かない。
常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と陰口を叩かれてもいたが、どうも優柔不断。
そのため天保年間よりこの方、長州では二つの派閥が争い常にどちらか一方が藩政を牛耳る結果になっていた。
二つのグループは数十年に渡って対立を続け、そのまま幕末までもつれ込む。
戦って勝ち目のないことは誰の眼にも明らか。
吉川監物は椋梨に迫る。
「早く三人の首を」
だが、椋梨には今回ばかりは断を下せない大きな理由があった。
もともと京都進軍は藩主の命で行われたもの。
謂わば上意、それを征長軍が迫ったからといって藩主の命で今度は切腹とは、あまりに理不尽。
しかし吉川監物にすれば、これ以外の方策はなく、もし戦端が開かれ負け場合、領土の減封、藩主親子も切腹になるやも知れずと強硬に説得する。
更に今一つ気になることは高杉率いる奇兵隊の三家老奪還の動き。
これに同意した征長軍は解散、収まらないのが藩内情勢。
隣国に逃げるところを椋梨は捕まり斬首。
以来、長州では椋梨は悪人のように言われているが、果たして歴史の評価はこれで正しいのだろうか。
一概に歴史の正邪は決められないが、今日、椋梨に関する資料は殆ど抹殺されてしまったようだ。
また、椋梨藤太を扱った本は他に見当たらない。
著者の古川薫さんは1925年生まれでまだご存命だが、本人が山口県生まれとあって長州物ばかりを書いておられる。
しかし、殆どが絶版、古書店でもなかなかお目にかかれない、とにかくまあ、私としてはこの本を読めて良かった。