著名な作家の自殺というのは他国と比べて多いのか少ないのか知らぬが、日本で夙に有名な自殺者と言えばまず以下の順になる。
有島武郎 (大正12年6月9日)
太宰治 (昭和23年6月13日)
三島由紀夫(昭和45年11月25日)
川端康成 (昭和47年4月16日)
しかし、これは一般的認知度で他にも存在する。
北村透谷 (明治27年5月16日)
久坂葉子 (昭和27年12月31日)
江藤 淳 (平成11年7月21日)
そして『詩人の妻 生田花世』の内縁の夫、生田春月(昭和5年5月19日)ということになる。
今回の本は生田春月の妻から見た夫ということになるが、現在では忘れ去られた作家であり、その著作を探すのも難しく伝記本とて見当たらない。
これは以前、偶然に古書市で見つけたもので昭和61年発行とある。
冒頭、花世が河井醉茗に師事して徳島の田舎から明治43年上京したところから始まる。
その後、青鞜に参加『新しい女の解説』『この頃の感想』『自己の或る心に与う』『昔の男に対して』『恋愛及生活難に対して』と、告白的な感想文を載せ、それが春月を引き寄せる結果になった。
『恋愛及生活難に対して』を読んだ春月は一目惚れならぬ一文惚れで是非、醉茗に仲介の労をお願いしたいと邸宅に現れ、それを聞いた花世は驚きと戸惑いで呻吟したとある。
何しろ、相手は4つ年下の22歳。
そもそも『恋愛及生活難に対して』とは貧しさのあまり男に身を委ねた自らの経験を書いたもので、春月は、それを承知で結婚も辞さない覚悟だった。
結局、二人は春月の師匠生田長江の家で見合い、是非にとも口説かれ、同棲するが、記録によると花世は身体的に未発達で身長がかなり低くめ。
しかし春月は「伴侶にするならこの人しかいない」という覚悟で来ているため容姿に拘わることはなかったが、所詮、馴れ初めから無理があり姉さん女房の花世と生活を共にしてみると諍いが絶えない。
御多分に洩れず春月も浮気、身悶えする妻とありきたりのパターンだが、ひとつ違うのは春月の場合は公然と出て行く。
それでも別れ切れなかった花世。
最後の日も女に会いに行くことを止められず、そのまま帰らぬ人へ。
大阪発、別府行きの菫丸から播磨灘に春月は身を投げた。
数日後、遺体は小豆島に流れ着き船中で見つかった友人への遺書には!
「女性関係で死ぬのではない。謂はゞ文学者としての終りを完うせんがために死ぬやうなものだ」
歌世の遺書には。
「さらば幸福に、力強く生きて下さい。僕はあなたの悪い夫であった。
どうかこれまでの僕の弱点をゆるしてもらいたい。
今にして、僕はやはりあなたを愛していることを知った。
さらば幸福に。 五月十九日 夜」
因みに歌世は、その後40年間存命し夫のことは殆ど語らず、源氏物語を生徒に教え余生を送ったとか。
死の前に作った歌には。
ふるさとの阿波の鳴門に立ち出でて
すくい上げたる白き砂はも
それにしても、春月の自殺は何ゆえであったか。
厭世的だったというが、心中にわだかまる澱と共に水中に没したか。
ところで、本の最後に先代の持ち主の書き込みがある。
「H9、6,4 了
千代子が
おったらなぁー
よませたかった
どういう感想をいうだろうか」
かなりの達筆だが、推定では昭和20年代の生まれではないだろうか。
千代子という人は亡くなったのか?
どんな持ち主だったのか、古本の変遷にも人の人生が宿っている。
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