愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

乳と卵 川上未映子 

 
この作品を芥川賞に持ってくるところが選考委員会の御目が高いところなのか私の御目が低いところなのか悩ましい。
改行なしで読点によって区切られ延々と続く文体は情景描写なり思考の連続なりで会話というのが殆どない。
 
豊胸手術を受けることに悩み続ける痩せている母、巻子と初潮前の不安を抱える反抗期で言葉を発することを拒否する娘、緑子。
母子が東京の妹宅で過ごす夏の三日間の物語。
娘は喋れないのではなく何事も筆談以外応じない。
しかし作中描写などはかなり上手い。
例えばこんな場面。
 
「フロントガラスはそこから水が沸き出てるかのようにみずみずしく光を放って、蝉の鳴き声が立体にびっちりと貼りついて、それと同じくらいしんとした午後」
 
如何に暑いかが物語られている。
またはこんな乳房の説明描写。
 
「一感想を云わしてもらえば、きれい、とか美しさの基準はそれぞれのもであるけれども、目の前の巻子の胸は、蚊にさされた程度の膨らみしかなく、そこに何かの操縦パーツかと思えるくらいの縦にも横にも立派に大きい乳首がついてあり(略)」
 
これは上手い表現だろう。
操縦パーツか・・・!
確かにそんな乳首を見たことがある(笑
 
まあ、そんなことはともかく、一見、親子愛などなさそうな母娘であったが誰よりも母への愛情があり、その表現方法が実に上手く、そこが選考委員の目を引いたところではなかったかと思うのだが。
しかしこの母娘は大阪人で、全編に亘って関西弁で語られるのは少々読み辛い。
個人的にはお薦めの一冊とまではいかないが作者の鋭い洞察力と発想には敬意を表する。
 

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悲しき初恋 デヴィッド・キャシディ

昨夜、何気なくネットを見ていたら思わぬ死亡記事を見つけ驚いた。
70年代初期、日本でも人気を博していたアメリカのテレビドラマ『パートリッジ・ファミリー』の主役、デヴィッド・キャシディが去年11月21日に67歳で亡くなっていたとある。
昔から特別アイドル思考はないのだが、まだ10代だった私は彼の存在には嫉妬したもので、目元が涼しく爽やかな清々しい青年として憧れの存在だった。
それが、いつの間にやら67歳!
時の移ろいの残酷さが痛い程沁みた夜だった。
私が髪を伸ばし始めたのは彼の影響が大きく、意に反して単なるヒッピーになってしまったが、まあ、それなりにヒッピー時代を楽しんだのもデヴィッドお蔭。
 
晩年は不遇をかこつ人生だったようで3度の結婚、アルコール依存症、逮捕、自己破産、認知症、肝不全。
栄枯盛衰は人の世の習いとは言え、あまりの変転ぶりに心が痛む。
70年8月にリリースした番組挿入歌の『悲しき初恋』は3週連続1位を記録し、私もそのドーナツ盤を買った一人として彼の死亡記事を書かずにおれない。
それでは彼の冥福を祈り『悲しき初恋』を久しぶりに聴いてみたい。
 
 

妻と飛んだ特攻兵 8・19満州、最後の特攻 豊田正義

 
人間、誰だって死にたくはない。
がしかし、時に命を懸けてでも守るべき事態が招来することもあり得る。
敢然とそれに立ち向かう勇気、この本は、そんな日本人を描いているように思う。
 
終戦後の8月19日、関東軍総司令部の命令でソ連軍に対し完全武装解除となり、つまりこの日が反撃最終日でもある。
 
きっかけは元加藤隼戦闘隊の生き残り、二ノ宮清准尉が上空から見たソ連軍戦車部隊による日本人の大虐殺。
そのソ連戦車部隊の進軍を少しでも遅らせて、日本人居留民の逃避を助けたい一念から、この日、満州、大虎山に駐屯した第五練習飛行隊の十一機が日本陸軍最後の特攻隊として飛び立った。
 
その中に、本書の主人公たる谷藤徹夫少尉と妻朝子が搭乗した特攻機も含まれていた。
本来、戦闘機に女性を乗せるのは重大な軍規違反。
他にもうひとり料理屋で働いていた「スミ子」なる女性も共に飛び立った。
 
「残されて辱めを受けるくらいなら、敵軍に特攻して果てたい」
 
という気持ちか、二人の女性に迷いは無かった。
しかし、どうだろうか。
谷藤少尉と朝子は同居するようになってまだ一月。
前日の夜、夫婦間で交わされたであろう悲痛なる会話を想像するに涙を禁じ得ない。
本来ならあり得ない夫婦での特攻。
その日、特攻機が滑走を開始したとき・・・!
 
「あの飛行機に女が乗っているぞ!」
 
と叫んだ兵士がいた。
彼はこのように戦後回想している。
 
皆の歓声で、一機、また一機と飛び上がる。中の一機の後方座席に女性の黒髪がなびいていた。
 
万感、胸に迫るような場面ではないか。
戦争の痛ましさがひしひしと伝わってくる。
彼等、十一機は名づけて「神州不滅特別攻撃隊
徴兵検査では本来軍人向きではなかった第二乙種の谷藤少尉の決意と無念は後世語り継いでいくべきものだろう。
 
ただ、この本そのものは大東亜戦争という長い道のりを経て8月19日に辿り着いているので殆どが満州事変など軍部と内閣の動向などに費やされており、読みこなすには少々時間がかかる。
しかし、ソ連軍の傍若無人ぶりは目に余るものがあり、今日、「レイプ・オブ・ザ・ベルリン」「レイプ・オブ・ザ・南京」なる言葉は聞いても「レイプ・オブ・ザ・満州」という言葉は聞かない。
 
男にとって敵兵による妻への凌辱など堪え切れるものではない。
適わぬながらも最後に一矢報いるという決断をしたとしても誰、責めることができようか。
それにしてもだ、残された夫婦の写真を見入ってしまう。
ソ連側の公式記録は何か残ってないのだろうか。
 

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ヘミングウェイの流儀 今村楯夫 山口淳

私の父は生前、ゲーリー・クーパーのファンで、とにかくクーパーの話しが大好き。
そのクーパーが前立腺癌で亡くなったのが1961年5月13日、60歳だった。
それを聞いた親友のヘミングウェイの落ち込みは相当なもので、同年7月2日に猟銃自殺している。
遺書もなく自殺の原因は詳しく分かっていない。
 
癌家系とはよく聞く言葉だが、自殺家系というのはあまり聞かない。
しかしどういうわけかヘミングウェイ一族には自殺者が多い。
父のクラレンス、妹アーシュラ、弟レスター、孫マーゴ・ヘミングウェイ、そしてヘミングウェイ本人。
 
ノーベル賞作家の自殺と言えば川端康成ヘミングウェイだが、この二人の経歴や風貌はあまりに対照的すぎる。
痩せぎすで蒲柳の質の川端とは反対にマッチョでタフネス、ハードボイルド・リアリズムのヘミングウェイは災難に見舞われながらも不死身な強さを内外に示してきた。
 
第一次大戦中、被弾して重傷を負い、パリでは天窓が落下して額を直撃、灯火管制下のロンドンで交通事故、アフリカでの赤痢、そして二度にわたる飛行機事故。
戦争も第一次大戦、スペイン内戦、第ニ次大戦と参加し圧倒的タフガイと幸運で生き抜いた果ての自殺だった。
 
頑健な肉体、逞しい行動力、並外れた記憶力、視覚、聴覚、臭覚、味覚、観察力を創作の糧とした作家。
釣り、酒、食、狩猟、闘牛、キューバとこれほど魅力的な作家も稀だ。
 
しかし後年は高血圧に悩まされ、バスルームの壁に血圧と体重を書くのが日課、更に鬱病にも見舞われた。
だが、この本の主体は彼の伝記ではなく、拘り続けたアイテムの紹介。
衣服や道具に求めたのはシンプルさと実用性。
 
多くの評伝には服装や持ち物に無頓着で執着しなかった人物と書かれているらしいが、それらの定説を覆すのが本書の狙いとも言える一冊。
 
「人生は、ほんのいくつかのものに愛着を持つだけでいい」
 
と言った彼の愛用品のひとつひとつを検証していく地道な本だ。
彼の膨大な遺品はキューバの邸宅、フィンカ・ビヒアのヘミングウェイ記念館とアメリカのJFKライブラリーに保管されている。
キューバか・・・!
ヘミングウェイが愛したキューバ、私も行ってみたいものだ。
 
因みに靴のサイズは29㎝。
 
しかし人生をは解せぬものだ。
彼ほど素晴らしい行動力と才能に満ちた生涯でも自死という結末が待っているとは。

ハルビンの詩がきこえる 加藤淑子

著者、加藤淑子とは加藤登紀子の母で1915年生まれ。
私の父より一歳年長で共に大陸で終戦を迎えている人。
以前、紹介した流れる星は生きている』の作者で新田次郎の妻、藤原ていは18年生まれ、夫次郎は12年生まれ。
ソ連参戦を聞いた時、加藤淑子はハルビン、新田夫妻は新京、父は上海だった。
故に私個人は引揚者の体験記には非常な興味があり、本書の存在は以前から知っていたが、去年、偶然にも古書店で見つけゲット。
 
我々日本人にとってハルビンと聞けば伊藤公暗殺の地として名高く満州国に行政権が移るまではロシアの租借地で、加藤淑子が夫幸四郎と結婚してハルビンで暮すようになった昭和10年10月10日には完全に満州国領になっていた。
満州国の民族政策は五族共和なので日・韓・満・蒙・漢ということになるが実際には白系ロシア人も多く移り住んでいた。
白系とはボルシェビキ赤軍を嫌って亡命したロシア人で、謂わば無関国ロシア人のことを指すが、本書を読むと戦前の満州は実に長閑で平和そのもの、他国人との関係も円満で戦争さえ起きなければ何ら問題がないような感じに受け取れる。
こんな記述がある。
 
昭和10年の冬、世界的に有名なオペラ歌手のシャリャーピンがハルビンに立ち寄りコンサートがあった。もちろんロシア人は大喜び!
片手をピアノにかけて歌うシャリャーピンの姿は、レコードでしか聴くことのなかった我々には最高の喜びであった。
 
シャリャーピンとは亡命ロシア人の世界的オペラ歌手で、そのコンサートをロシア人と共に間近に見たと書いている。
これでは五族ならぬ六族共和ではないか。
しかし、昭和16年6月、夫に召集令状が届く。
幸四郎は、
 
ソ連と戦争が始まりそうなので、家族は日本へ帰ったほうがよい」
 
と言われ27日夜、ハルビンを立つことになったが無理もない。
既に独ソ戦は始まっており、41年7月に行なわれた「関東軍特種演習」は、実際に単なる軍事演習ではなく、関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策で独ソ戦が有利に進展した場合、武力行使で北方問題を解決するとの方針を御前会議で決定していた。
 
しかし、実際には対ソ戦は行われず日米開戦が勃発、淑子はハルビンに戻り、その後、夫の勤務地奉天に移住。
更に20年6月、幸四郎は朝鮮済州島防衛部隊に移動。
既に淑子は三人の子持ちで奉天に残るかハルビンに帰るかの選択を迫られ、爆撃の多い奉天を諦めハルビンに戻ることを決断したようだ。
 
更に情勢は緊迫し幸四郎済州島へは行かず、朝鮮北部の羅南へ情報主任として配属され、戦闘もなく平和なのでこちらへ来いと云う。
しかし8月9日、ソ連が参戦、淑子が切符を手に入れたのが11日。
幸四郎からの便りで、
 
「空襲警報が鳴らずに空襲があればソ連だと思え」
 
結局、淑子はハルビン終戦を迎え3人の子供を養うために洋裁の仕事で糊口を凌いだ。
翌年4月にソ連軍は引揚げ八路軍ハルビンを占領する。
既に内戦状態にある中国ではソ連が引き上げることによってソ連軍票が紙屑同然となり大陸に捨てられたようになっていた邦人には法律も警察もいない無法地帯での生活はさぞ堪えたことだろう。
 
正式に引揚げ協定が成立したのは21年7月、帰国に際して持ち帰ることの出来る金額は一人千円。
子供が三人居るので四千円ということになる。
ところで個人的なことになるが我が祖父母ら一族、約10人が帰国を果たしたのはいつだったか書類を調べてみると。
 
右ハ昭和二十一年四月十九日博多港ニ上陸センコトヲ證明ス
 
とある。
ということは既に内戦化にある中国では毛沢東率いる八路軍と上海を制圧していた国民党軍では対応が違ったということだろうか?
しかし、それ以上に本書を読んで今更ながら理解したことがあった。
我が家系にはどこの親戚にも戦前戦中の写真が無い。
以前から不思議に思っていたが、やっと回答を得た。
帰国に際して持ち物は厳格に制限されている。
 
衣類夏冬二枚、布団、壊れない食器、洗面具、食料品、リュック一個、腕時計は可。
写真、地図、本、宝石は不可。
 
私は父の子供時代の写真を見たことがないが、どうりで、全部取り上げられてしまったわけだ。
何とも遣る瀬無い。
ともあれ、淑子達は荷物を持ち長男幹雄8歳、長女幸子6歳、登紀子を背に負ぶって12㌔以上の道のりを歩く。
明日の命さえ分からぬ約一か月の長旅、やっと話せるようになった登紀子がしきりに言った言葉が載っている。
 
「おうちへかえろう」
 
時に加藤淑子31歳。
 
しかし、この手の本を読んでいつも思うのは敵地で終戦を迎えることの恐ろしさ。
数百万もの邦人が外地に取り残された。
よくぞ帰って来た、よくぞ帰って来れたものだ。
辛酸を舐めるとはこういことだろう。
我が一族も終戦後八カ月、上海で何をどう思い生きていたのだろうか。
語るべき親の世代は既に全員鬼籍に入った。
私がこうしてブログを書いているのも親が無事に帰還を果たしたが故だ。
先の世代の方は本当に大変な時代を生きたものだと痛感させられる。
 
因みに加藤淑子さんのお若い頃の写真を拝見するに実に可愛らしい!
序に淑子さんが聴いたというシャラャーピンの動画を載せておく。
曲は『黒い瞳
 

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萩原朔太郎『郷土望景詩』 幻想 司修

 
司修、あまり知らない人だが経歴を見ると昭和11年生まれで小説家、画家にして法政大学名誉教授という肩書を持っている。
この本は詩画集として萩原朔太郎の詩に司さんの幻想的な挿絵でなり立っているが、朔太郎の詩をイメージして書かれた絵というわけではなさそうだ。
 
私個人は朔太郎ファンだが、こうして詩画集を出すぐらいだから司氏も朔太郎のファンなのだろう。
しかしこの文庫本、勉誠出版なる会社から出ているが聞いたことがない出版社だ。
おまけページというものがない不思議な本。
絵画には疎いほうなので朔太郎の詩を少し紹介したい。
 
広瀬川
 
広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん
われの生涯を釣らんとして
過去の日、川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ひさき魚は眼にもとまらず
 
「公園の椅子」より
 
われは指にするどく研げるナイフをもち
葉桜のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり
 
朔太郎は漂泊の詩人である。
故にいつも孤独を歌っている、否、刻んでいる。
司修氏も敢えてこれらの詩を掲載しているところを見ると孤独の本質には拘りを持っているのかも知れない。
 
例によって、これも古本屋で買ったが、果たしてこんな本は失礼ながら売れるのだろうかとやや疑念を持つ。
 

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ナタリー・ウッド事故死で再捜査

おそらく007の影響かと思うが1960年代後半あたりから、日本でもアメリカのテレビドラマでスパイものが大流行。
0011ナポレオン・ソロ』『スパイ大作戦』『スパイのライセンス』など毎週見ていた。
その『スパイのライセンス』で主役を務めたロバート・ワグナーの妻がナタリー・ウッドだと知ったのはいつ頃だったか。
生前から恋多き女として知られた彼女が不慮の事故で亡くなったのは1981年。
まだ43歳という若さだったが、どうしたわけか近年、彼女の死について再捜査が行われるという記事を以前読んだ。
 
死因はヨットから転落しての溺死だったが他殺という説も浮上している。
そんなことがあるのだろうか!
事故当夜、夫以外にも複数の人物が乗船していたらしく、中には、クリストファー・ウォーケンもいた。
とにかくナタリーは派手に浮名を流した女優として知られている。
 
ロバート・ワグナーとは離婚後にまた再婚している。
 
そのロバート・ワグナーに一昨日、地元警察が、「重要参考人」として事情聴取を求めていることが分った。
水死体で見つかったナタリーには暴行された複数の痣があり当時は事件性は薄く事故死と判断されたが、やはり殺人事件の可能性も捨てきれないようだ。
現在、ロバート・ワグナーは87歳、しかし、事情聴取を拒んでいるという。
飽く迄も「もし」の話しだが、これが殺人だとしたら事件当夜、ナタリーが他の男との浮気現場をワグナーが目撃、または疑われ、その結果、暴行し海に投げ込んだ、或は転落したか。
何れにしても疑惑の多い事件だけにワグナーは事情聴取に応じて身の潔白を証明した方がいいと思うが。
 
以下の映像はナタリーの写真を編集したオムニバス動画、実は私、今でもこの動画を深夜よく見ている。
これを見ていると何となく切ない気持ちになるんですね。
それは曲の影響も多分にある。
私の好きなエリック・カルメンの名曲『 Boats Against the Current(雄々しき翼)』1977年の曲です。
一体、誰がこの動画を作成したのか知りませんが本当に素晴らしい!
 
映像の中でナタリーと共演した人物を少し書いておきます。
 
ウォーレン・ビューティ
ロバート・ワグナー
・ロバート・レッド・フォード
・ジュージ・チャキリス
・スペンサー・トレーシー
 
因みに私が好きなスナップは1:5秒辺りの乱れた髪の写真と後半4:00辺りの写真。
しかし、流石に皆さんお若いですね。
スペンサー・トレーシーは既に亡くなっています。
では動画を!
 

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