愛に恋

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毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記 北原みのり

 
 
一般的に毒婦というと、まず思い浮かぶのは高橋お伝阿部定ということになるか。
しかし最近、平成の毒婦と言われる女性が二人も登場した。
片や青酸カリを飲ませた連続殺人事件の筧千佐子容疑者、そしてこの木嶋佳苗
婚活詐欺とでも言うのか短期間に複数の男性を篭絡し易々と金銭を騙し取る手口、ある面、鮮やかとでも言うかマスコミはこぞってこの女を特集した。
 
国民が彼女の写真を見て一様に思ったことはマスコミが言うように「なぜ、こんな女に騙されたのか」と、まずその点に関しては一致した見解だろう。
「ブスでデブ」とマスコミは騒ぎ立てたが、確かに「何故」という文字がこの事件には付き纏う。
被害者は以下のように複数人。
 
F氏 7380万 2007年8月31日死亡
寺田隆夫さん 1850万円 2009年1月31日死亡
安藤健三さん 270万円 2009年5月15日死亡
大出嘉之さん 470万円 2009年8月5日死亡
他に詐欺に遭った男性も何人かいるという。
 
事件が初めてニュースで報じられ被害者の大出嘉之さんがブロガーだと紹介された日、私も彼のブログを尋ねてみた。
何とアクセスとコメント数の凄いこと。
プラモデルが趣味で最後の日の記事は「今日、相手の御家族と会う」と書かれていたのが印象深く哀しかった。
しかし彼は、相手の家族に会うことなく不自然な練炭自殺者とした車中で見つかった。
 
この本の追及するところは文字通り「何故」である。
何故、男たちは易々と佳苗に金を渡し殺されていったか。
著者は100日間、裁判を傍聴して同性である佳苗の性格を何とか抉ろうと、まるで肉薄せんばかりに観察している。
 
「佳苗は同情を求めないが、男たちが求める”女”については熟知していた」
 
ある面、毒婦と呼ばれた女たちは計算高く賢い一面を持っている。
一説に「料理が得意な女はアレも上手」なる話しを聞いたことがあるが、確かに佳苗は料理が上手かった。
公判中、佳苗は問われるままにこんなことを言っている。
 
「男性たちには褒められました。具体的には、テクニックというよりは、本来持っている機能が、普通の女性より高いということで、褒めて下さる男性が多かったです」
 
つまり自分のアレは名器だと公言している。
これを聞いて女性記者の間では・・・!
 
「みみず千匹ってこと?」
「かずのこ天井!?」
「私、褒められたことない」
 
など騒がしかったとある。
しかし、この佳苗という女性、確かに普通の女とは違う。
常に服装は派手でカットソーというのか胸を大きく開き谷間を見せる出で立ちで現れる。
色白で物腰は優雅。
まるで犯罪者特有の落ち着きのなさというものが見当たらない。
 
そして詐欺師たるべき努力も怠らない。
日々、複数の男性と会い、毎日のようにブログを更新。
多い時はひと月で120の記事をアップ、料理も年間、2千件の写真を掲載。
2009年には50万件アクセスというから、大人気ブロガーと言ってもいいだろう。
 
佳苗にとって結婚とは条件の交換みたいなもので、男性は経済を女性はセックスを提供する。
しかし一般人が見る佳苗像とは、やはり、この女がどうして毒婦に成り得たのかという点に尽きる。
思うに彼女はかなり頭がいい。
例えば検察側の質問に、大出さんとのセックスが不満だったというくだり、彼女はこんな風に答えている。
 
「私がセックスにおいて到達点と考えている世界を共有できなかった」
「到達点とは?」
「私は、セックスにおいて長時間快感を持続させながら、トランス状態でオーガズムを感じてトリップすることを求めていましたので・・・」
 
裁判所内でこんな答弁を普通出来るだろうか。
それはまるで「あなたたちの知らない世界に私は行ったことがある」という誇らしげな答えだったと著者は書いている。
しかしこの事件の不可思議さは、何と言うか残酷さの希薄にある。
被害者はみな睡眠導入剤を飲まされ練炭で殺害されているため眠ったまま逝ってしまい血痕というものがない。
更に被害者と加害者の感情的対立点もない。
 
だが、いつもこの手の大量殺人には疑念が残る。
連続殺人はいつかバレるということを考えないのだろうか。
一度この手の味をしめたら二人殺すも三人殺すも一緒という考えに陥ってしまうのか。
 
「何が彼女をそうさせたのか?」
 
この手の犯罪心理は果たして解明されるものなのか。
 
「そうか、そういうわけだったのか」
 
などと、心理状態に理解を示せるとも思えない。
毒婦には毒婦の理論があるでは通用しない。
 
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真珠湾の不時着機 牛島秀彦

 
「九軍神」の話しを聞いたことがあるだろうか。
日米開戦の先陣を切って乗り込んだ5隻の特殊潜航艇。
真珠湾近郊で9人が戦死、それが「九軍神」として戦時中、高らかに祭り上げられたが潜航艇は2人乗り。
あとの一人はどうなったのか?
その人物は捕虜第一号となった酒巻和男少尉。
酒巻少尉が乗った潜航艇は座礁し同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出。
漂流中に稲垣とはぐれ、自身は失神状態で海岸に漂着していた所をアメリカ兵に発見され捕虜になった。
取り調べ官に対し、
 
「殺してください」
「ノー、殺さない」
 
の押し問答を繰り返し、暴れて自ら壁に頭を打ちつけたが死ねなかった。
故に酒巻少尉は軍神にはなれなかったというわけだ。
 
本書を古書店で見た時、不時着とは変だがてっきり酒巻少尉の話しかと思って買ったのだが、まったくの見当違い。
今回初めてその事実を知り確かに漂流ではなく不時着の話しだった。
因みに戦後、酒巻少尉はこのような本を刊行しているが、おそらく復刊されぬまま今日に至り現在Amazon価格5,000円、新潮社から発売されているので文庫化されないのは何故か不思議だ。
 
さて、本書だが主役は予科練出身海軍一等飛行兵曹西開地重徳22歳という人物。
1941年12月7日午前5時30分、日本海軍の大機動部隊は、ハワイ・オアフ島北方360㌔の海上にあり、空母6隻は、それまで真南を目指していた進路を一斉に真東に変え、飛龍のマストにはZ旗が翻る。
その母艦飛龍から単座機に乗って飛び立った1人が西開地重徳一等飛行兵曹。
西開地は熊野澄夫大尉が指揮する第二次攻撃隊の一員。
いよいよその時、「搭乗員整列」の号令。
艦長、加来止男大佐の訓辞。
 
まさに日本海海戦以来の、皇国の興廃此一戦に在りだ。戦果は、一に諸子の双肩にかかっておる。健闘を祈るとともに、奇襲の成功を信じて疑わぬ。これまでの猛訓練の成果を十二分に発揮するように。
 
目指すは真珠湾アメリカ太平洋艦隊、愛機はゼロ戦
以下は西開地の絶筆。
 
小輩は今迄何の目的あって苦労して腕を錬磨してきたか、云うまでもなく今日あるを希って腕を作って来た。今迄小輩を疑って来た者もあると思ふ。
然し天のみ小輩の志を知って居て呉れたまうと信ず。未練更に無し。父母によろしく御伝へ乞ふ。
 
第二次攻撃隊全167機、発進は午前6時半過ぎ。
オアフ島上空、隊長機から「ト、ト、ト・・・」全軍突撃セヨ、との電信命令が下る。
 
西開地機は攻撃終了後、エンジンの不調を感じ、このままでは母艦帰投はおろか、集合地点にさえ辿り着けないと悟り飯田房太大尉の言葉を思い出す。
 
「もし敵基地上空で燃料タンクをやられ、帰投の燃料がなくなったら、一番効果的な目標を選び、迷わず自爆せよ」
 
その、飯田隊長機から燃料漏れの尾が引いているのが見えたと思ったら翼を大きく左右に振って機首を急展開、敵兵器庫目掛けて一直線に突っ込んで行った。
自分も隊長機に習って敵基地に突っ込むか判断に迷った結果、艦隊司令官淵田美津男中佐の支持に従うことにした。
 
万一の場合は、ハワイ諸島西端のニイハウ島に不時着せよ。同島は、ハワイ人のみでアメリカ軍は居ず、白人不在であるから、危険はない。
二十四時間以内に、わが潜水艦が救助に向かうから、必ず海岸近くで、海面を注視し、待機せよ。
 
問題はここからだ。
ニイハウ島の所有主はロビンソンといって個人の所有地になっている。
謂わば治外法権の地で、ロビンソンの別荘の管理人が日系二世のハラダ・ヨシオという人物。
そのハラダの妻が戦後語ったところによると「土人の部落に不時着したのがアンラッキーだった」
真珠湾攻撃を知らない島民は驚き、胴体着陸していた飛行機から西開地を引きずり出すと拳銃と書類を奪ってしまった。
現場に駆け付けた島の支配人格のハラダは、
 
「君、いったいどうしたんですか、何が始まったんですか」
 
と尋問する。
言葉の解らない島民は飛行機が日本のものだと知ると騒ぎ出し、
「殺せ、殺せ」の大合唱。
危険を感じたハラダはとにかく自宅に来るようにと促すが西開地は応じない。
必ず潜水艦が自分を迎えに来るはずだと。
事情が分からないハラダ日系人ハラダはジャップのスパイだと疑い始める島民。
 
その頃、西開地が待ち望んでいた潜水艦イ74潜は不時着機救助の任を解かれ新任務につき、結局、西開地は浜辺で48時間待ち続けることに。
時間が経つにつれ動揺の輪は広がり、島民の不安は募るばかり。
西開地はハワイ全島を近々日本が占領することを信じ、それまでに奪われた拳銃と書類を取戻し自決する事を覚悟。
 
事、ここに及んでハラダは最後まで西開地を庇い、別荘にあった猟銃と回転式拳銃を持って住民キャンプを襲い、書類と拳銃を奪い返すつもりで妻に別れを告げ家を出た。
それが、妻ウメノ・アイリーンにとって夫と西開地を見た最後になった。
はっきりした死の真相は分からないが1941年12月13日、全島民を敵にまわした二人だけの戦争は終わり、ハラダと西開地は折り重なるようにして倒れていた。
西開地がウメノに託した遺言は以下の通り。
 
「住所 愛媛県今治市波止浜3860 海軍一等飛行兵曹西開地重徳」
 
と書いたものを渡し
 
「日本軍がこの島にやって来たら、これを司令官に渡してください」
 
しかし、日本軍司令官がやって来ることはなく西開地一等飛行兵曹の戦いは1週間で終わってしまった。
日本海軍が嘘をつくはずがないと硬く信じていた救助。
独り、見捨てられるようにして死んでいった西開地。
深刻に思いつめていたであろう1週間。
思うに、あの日、母艦を飛び立った飛行兵たちは低空飛行で魚雷を発進するため地上からの機銃掃射に狙われやすい。
身震いするほどの興奮もさることながら決死の覚悟がないと、とてもじゃないがこんなことは出来ない。
知られざる開戦の一ページだった。
 
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クリムト―世紀末の美 講談社文庫―文庫ギャラリー

1860年生まれの作曲家、グスタフ・マーラー1862年生まれの画家、グスタフ・クリムト、その両者と深い関係になり、結果的にマーラーと結婚した女性がアルマ・シントラー。
と言っても私はまったくこの女性を知らない。
 
クリムトと言えば絢爛豪華な金粉作りの絵、愛と官能、生と死をモチーフに世紀末のウィーンで頽廃の美を追求した天才画家というイメージだが、この画集を見ていると常にめくるめく官能美を求めて裸体ばかりを描いていたわけではなく、かなりの風景画も残しているが自画像だけは描かなかった。
その理由として彼はこんなことを言っている。
 
私の自画像はない。絵の対象としては自分自身に興味がない。むしろ他人、とくに女性、そして他の色々な現象に興味があるのだ。
 
しかし、特に関心を抱いたのはやはりエロス。
 
クリムトが男女のエロスに深い関心を抱いたのは、それが生と死をつなぐ輪廻の結び目の役割を果たしているからだ。
 
とあるが、なるほど、確かにエロスは人間の根源であり神秘の源、連綿として性の営みが続いたればこそ今の我々もある。
それにしてもクリムトが描くエロスは官能という呼び名がピッタリ。
女性は恍惚の薄ら笑みさえ浮かべている。
彼は性のはけ口をモデルに求めていたらしいが、女性のオーガズムの表情を画家として見過ごさず、鋭い観察眼を持ってキャンパスに描き出す。
私の印象では裸体の描線を曖昧模糊とさせている点がエロスを一層際立たせているようにも思う。
 
画家の持つ才能というのは見たままを写実的に描く能力にも唸るが、視点で捉えたものを脳内で崩し抽象化した独自の世界で展開する技量には恐れ入る。
文士は発想、画家を想像、何れにしても思い描いているだけでは話にならない。
それを原稿用紙、またはキャンパスに描いて見せなければ。
いつの時代も人類は名文名画を必要としている。
でなければ我々凡人は生きる喜びが半減してしまう。
動物に草食と肉食があるように人間にも天才と凡人が居るからこそ芸術は生きてくる。
官能という密室の芸術こそ、しなだれた頽廃の美ということになるのだろうか。

夫・遠藤周作を語る 遠藤順子

 
私が遠藤周作さんを読んでいたのは、思い出すにおそらく昭和49年頃ではなかったかと思うが、どうもはっきりせぬ。
五木寛之と交互に読んでいたことは確かなのだが。
しかしキリスト教を扱った純文学ではなく大衆文学的なものばかり読んでいた。
例えばこんな本。
 
・大変だァ
・一・二・三
・おバカさん
楽天大将
・ただいま浪人
 
しかし、昭和51年だったか司馬遼太郎を読むようになってからは遠藤、五木共にめっきり読むことが減ってしまった。
遠藤周作が亡くなったのはいつかと調べてみると1996年9月29日とあるので既に20年以上の歳月が経過したわけだ。
 
本書は聖心女子大学文学部教授の鈴木秀子さんという方が夫人の順子さん相手にインタビュー形式で綴られた本。
遠藤さんは所謂第三の新人」と言われる世代。
何でも奥さんの話しによると若い頃から肋膜炎に苦しめられ、その為、入隊期間が大幅にずれ込み、そのまま終戦を迎えたため出征はなかった。
二人の婚約は昭和28年のクリスマスで、場所は新宿の焼き鳥屋。
 
大の母親思いの遠藤は「クリスマスなら家に居るだろうから今から母に会いに行こう」と家を訪ねたら運悪く留守。
ところが、その母親が29日脳溢血で急死してしまい、結婚後には結核に見舞われ、これが生涯遠藤を苦しめた。
 
こんな逸話が面白い。
遠藤は事ある毎に妻に言った。
 
「おふくろに誓ってこれは本当だ」
「おふくろに誓えるか?」
 
金科玉条とでも言うか伝家の宝刀を抜くような言い草だ。
芥川賞を貰い長男が誕生した時は名前を芥川に因んで龍之介。
奥さんは言う。
 
「思え夫は千葉周作の周作だし、息子は机龍之介の龍之介だし、ばかに剣豪に縁がある」
 
因みに机龍之介とは中里介山の『大菩薩峠』の主人公。
しかしながら人間は分からぬものだ。
勉強嫌いで劣等性だった遠藤は堀辰雄との出会いが切っ掛けで一夜にして勉強家に変身、日に二冊のペースで本を読んでいたと奥さんは証言している。
 
ところで、いつの事か分からないが京都好きの遠藤は司馬遼太郎と交流があり、司馬さんから訊いては穴場のお寺巡りをしていた。
更に京都好きが高じて嵯峨野の瀬戸内寂聴宅の近くに家を建設。
今はどうなっているのだろうか?
そして私を驚かせた大覚寺訪問。
大覚寺には大沢池と広沢池があるが、旧暦の9月13日、わざわざ屋形舟を運んで広沢池で月見をしたとある。
はて、数年前に大覚寺に行った折り、写真に撮ったこの池はどちらだったか?
 
 
よく調べてみると残念、大沢池だった。
しかし、遠藤夫婦もここに来たことは間違いない。
そんな遠藤周作は早い時期から死に支度を初めていたと奥さんは語る。
ある時、こんなことを言われたそうな。
 
死に支度 いたせいたせと 桜かな
 
一茶の句だが、吉行淳之介に逝かれた時のショックはかなり大きく、次々に去って行く友人たちを悲痛な気持ちで見送った。
そして一言!
 
「次は俺の番だな」
 
後年、キリスト教に関する著書の多い遠藤周作の宗教観とはどのようなものであったか奥さんに言わせると。
 
たとえば西洋のカトリックを、ただ西洋的な考え方のままで日本に移入しても、信者でない日本人からみれば、結局、たくさんのキリシタンを苦しめただけで、そんなことなら何も知らずにすんだ方がどれだけましだったか、そういう矛盾を無視して宗教は考えられない。
 
これは、戦後、石原莞爾が連合国判事に言ったのと相通じる。
 
「日本はペルリが来る前までは、それなりに平和にやっていたのだ」
 
ペリーが来なかったら戊辰戦争もなかったというわけだ。
ともあれ遠藤周作の晩年作品『深い河』は、本当の最晩年の作で遠藤は、
 
「早く表紙をなでてみたい」
 
と日記に書いているから、余程、思い入れが深かったのだろう。
その遠藤が最後まで心の拠り所としていたのは、やはり母親で、純文学を書いている時はいつも母の写真を胸ポケットに入れていたというから、ここまで母思いの強い息子なら、さぞ親としては本望だろう。
 
最後に、本書を読むまで知らなかったが遠藤は3年半の壮絶な闘病生活を送り、どうも奥さんの話しを聞いていると病院、担当医、医療にかなりの不信感を持っているようで、生前、遠藤は「心暖かな医療を」提唱していたとある。
確かにその通りで私も大病経験が二度あるが医師に対する信頼度がなければ、とてもじゃないが病気を乗り切れない。
問題の『深い河』は息あるうちに間に合ったようで現在、遠藤作品は各国語に翻訳され晩年には文化勲章も授与されている。
宗教は本来、人間の救済を目的にし、文学は人間の根源を追求する。
 
この世に生まれたことより、何の為に生きているのか難しい問いを、これでもかと文士は書いてきた。
人間は多面体を持つ動物、見る角度よって随分異なった一面を持っている。
それを文字で表現する難しさ。
私もよく承知しているが、優れた文学者は、敢えてこの点に真っ向勝負。
遠藤先生も四つに組んで悪戦苦闘した結晶が、今、世界で認められているようだ。
では最近、映画化されたこの作品を以って了としたい。
 

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老いの道づれ―二人で歩いた五十年 沢村貞子

 
沢村貞子と聞いて、すぐ顔を思い浮かべれる人は、やはりある程度の年配者なんだろう。
明治41年生まれの貞子の家系は芸能一家で、兄は四代目澤村國太郎、弟は加東大介、甥に長門裕之津川雅彦がいる。
 
貞子本人は数多くの映画やドラマに出演したが、名脇役という肩書からも分かるように代表作というのが思い浮かばない。
黒澤映画でお馴染みの藤原釜足は元夫でもあるが、経歴をみると、どうやら3度の結婚歴がある。
 
この本に書かれている五十年連れ添った相手というのは文筆家の大橋泰彦という人だが、この方については全く知らない。
二人の馴れ初めは昭和20年の暮れで、以来、夫が死ぬまでの約半世紀のことが掻い摘んで書かれている。
事の始まりは1994年、出会ってから翌年で50年になるのを記念に誰読ませるわけでもなく交代で思い出すまま昔を書き連ねていくつもりのはずが、初回だけ書いて御主人が亡くなってしまった。
後は貞子が大好きだった亭主の思い出をつれづれなるまま綴った作品になった。
中でも印象に残ったのがこの場面。
 
「今でも、やはり鮮明に覚えているのは、一日、二人で宇治へ出かけた日のことである。宇治川を渡って、平等院の美しい建物が、額縁の絵のように前方で見える河原の石に腰をおろして、かなり永い間、話し合った」
 
およそ、今から70数年前のこと。
15年程前だったか、一度、宇治に行ったことがあり宇治川に架かる橋、あれは観月橋だと思うが、その問題の河原に降りたことがある。
渡月橋と違い、あの辺りには人が疎らで季節によっては鵜飼のシーズンもあるらしいが、私が行った時は人が殆ど居なかった。
思うに二人が座った石とはどの石なのか、非常に感慨深い。
私が旅先で思うことは、人、それぞれの胸の裡に大事に仕舞われている旅した時の懐しい思い出が、その人たちの死と共に永遠に消え去っていく人生の儚さだ。
 
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
 
50年紡ぎ合って来た愛の形が相方の死によって淋しく崩れ去ったときの心の損失感は如何ばかりであろうか。
二人には子はなく、遺された妻の哀しみだけが涙のように筆先からこぼれ落ちて文章になる。
誰もが通るこの道。
読むほどに、読むほどに悲し随筆だった。
 
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大日本帝国最後の四か月: 終戦内閣“懐刀”の証言 迫水久常

著者、迫水久常の名は今日、一般にはどれだけ知られているのか知らないが、終戦秘史をテーマにした本には欠くことのできない人物として広く認知されている。
鈴木内閣の内閣書記官長でいわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人でもあり、時代の証言者として、または歴史の生き証人として現場に立ち会った本人が書いているだけあってこれほど面白い本も稀である。
 
軍部を中心とした徹底抗戦派と重臣らが画策する和平工作で国論は分かれ、鈴木首相は早期講和の意志があることを秘し、表面上は戦争継続を叫びつつ、軍部のクーデターを回避しながら、如何にして終戦に導くか、その腹芸の難しい舵取りの懐刀として鈴木総理は迫水を手元に置いたということだろう。
 
クライマックスは終戦前日、8月14日の御前会議。
日本史上、これほど感動的な一日は他にあるまい。
出席したのは最高戦争指導会議のメンバー、首相鈴木貫太郎外務大臣東郷茂徳陸軍大臣阿南惟幾海軍大臣米内光政、参謀総長梅津美治郎軍令部総長豊田副武、鈴木内閣の全閣僚。
 
他に枢密院議長の平沼騏一郎、戦争最高指導会議の幹事を務めていた陸軍省の吉積正雄軍務局長、海軍省の保科善四郎軍務局長、池田純久内閣総合計画局長官、内閣書記官長迫水久常
そして陛下と侍従武官長の蓮沼蕃(しげる)。
ポツダム宣言の要旨を書記官長が読み上げ、宣言受諾を巡って賛成反対の意見が述べられた後に陛下のお言葉。
 
「私も外務大事の意見に賛成である」
 
その後、受諾理由を涙ながらに語られた陛下を前に列席者一同が号泣。
日本史上に長く記憶させるべき重大な一日だった。
 
鈴木貫太郎内閣の発足は昭和20年4月7日。
海軍大将でもある総理は御年79歳。
陛下のたっての希望で大命降下、已む無く総理の職を拝命した鈴木には心中深く期するところがあり、傍に使えて、その一部始終を見聞してきた結果がこの本の結実である。
有名な鈴木総理と阿南陸相の最後の対面の時に交わされた会話は次のとおり。
 
終戦の議が起こって以来、わたしは総理に対して、いろんなことを申しあげ、たいへんご迷惑をおかけしました。ここに謹んでお詫び申しあげます。わたしの真意はただ一つ、どんなことがあっても国体を護持したいと考えただけでありまして、他意があったわけではありません。この点、どうぞご了解くださるようお願い致します。
 
それに対し総理は。
 
阿南さん、大変でしたね。あなたの気持ちはよくわかっています。国体はきっと護持されますよ。皇室はご安泰です。なんとなれば、陛下は春と秋のご先祖のお祭りを御自分の手で熱心に行われてこられましたからね。長い間、ほんとうにありがとうございました。」
 
そして阿南陸相はこう述べて退出し、その後、割腹自決。
 
「わたしもそう信じております」
 
陸相の頬には涙が伝わり、それを聞く迫水書記官長も涙する。
そして総理が書記官長に言った言葉は。
 
「阿南陸相は暇乞いに来たんだよ」
 
国家が滅亡の淵に立たされる。
この岐路に直面し、当時を知る日本人の心境を思う時、まさに「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」ですね。
戦争は始めるより終えることの難しさを痛感させる8月14日だった。
因みに阿南さんの言う「他意」とは「元よりクーデターなど考えてはおりません」ということではなかろうか。

女優 瀬戸内晴美

 
既に絶版になっているが女優の嵯峨三智子がモデルだと知って読んでみる気になった。
嵯峨三智子山田五十鈴のひとり娘で92年に病没しているが彼女の作品は、おそらく一本しか観ていない。
雷蔵と共演した『影を斬る』で、これがなかなかに面白い。
夫の雷蔵より妻の方が剣術の達人で修行のため雷蔵が江戸に出るというような話しだったと思うが。
 
それはともかく、本書によると嵯峨三智子という人はかなり男出入りの激しかった女性のように書かれている。
何しろ美人で八頭身。
よくモテたらしいが金銭問題や薬物中毒でトラブル続き、芸能界復帰と失踪を繰り返した乱れた半生。 
無頼派女優だったのか生き様が奔放過ぎて本当にこんなに沢山の男と寝たのかというぐらい次々と男が現れる。
 
滞在先のバンコクで客死した時は、まだ57歳だった。
 
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