私が遠藤周作さんを読んでいたのは、思い出すにおそらく昭和49年頃ではなかったかと思うが、どうもはっきりせぬ。
五木寛之と交互に読んでいたことは確かなのだが。
しかしキリスト教を扱った純文学ではなく大衆文学的なものばかり読んでいた。
例えばこんな本。
・大変だァ
・一・二・三
・おバカさん
・楽天大将
・ただいま浪人
しかし、昭和51年だったか司馬遼太郎を読むようになってからは遠藤、五木共にめっきり読むことが減ってしまった。
遠藤周作が亡くなったのはいつかと調べてみると1996年9月29日とあるので既に20年以上の歳月が経過したわけだ。
本書は聖心女子大学文学部教授の鈴木秀子さんという方が夫人の順子さん相手にインタビュー形式で綴られた本。
遠藤さんは所謂「第三の新人」と言われる世代。
何でも奥さんの話しによると若い頃から肋膜炎に苦しめられ、その為、入隊期間が大幅にずれ込み、そのまま終戦を迎えたため出征はなかった。
二人の婚約は昭和28年のクリスマスで、場所は新宿の焼き鳥屋。
大の母親思いの遠藤は「クリスマスなら家に居るだろうから今から母に会いに行こう」と家を訪ねたら運悪く留守。
こんな逸話が面白い。
遠藤は事ある毎に妻に言った。
「おふくろに誓ってこれは本当だ」
「おふくろに誓えるか?」
金科玉条とでも言うか伝家の宝刀を抜くような言い草だ。
芥川賞を貰い長男が誕生した時は名前を芥川に因んで龍之介。
奥さんは言う。
しかしながら人間は分からぬものだ。
勉強嫌いで劣等性だった遠藤は堀辰雄との出会いが切っ掛けで一夜にして勉強家に変身、日に二冊のペースで本を読んでいたと奥さんは証言している。
ところで、いつの事か分からないが京都好きの遠藤は司馬遼太郎と交流があり、司馬さんから訊いては穴場のお寺巡りをしていた。
更に京都好きが高じて嵯峨野の瀬戸内寂聴宅の近くに家を建設。
今はどうなっているのだろうか?
そして私を驚かせた大覚寺訪問。
大覚寺には大沢池と広沢池があるが、旧暦の9月13日、わざわざ屋形舟を運んで広沢池で月見をしたとある。
はて、数年前に大覚寺に行った折り、写真に撮ったこの池はどちらだったか?
よく調べてみると残念、大沢池だった。
しかし、遠藤夫婦もここに来たことは間違いない。
そんな遠藤周作は早い時期から死に支度を初めていたと奥さんは語る。
ある時、こんなことを言われたそうな。
死に支度 いたせいたせと 桜かな
一茶の句だが、吉行淳之介に逝かれた時のショックはかなり大きく、次々に去って行く友人たちを悲痛な気持ちで見送った。
そして一言!
「次は俺の番だな」
たとえば西洋のカトリックを、ただ西洋的な考え方のままで日本に移入しても、信者でない日本人からみれば、結局、たくさんのキリシタンを苦しめただけで、そんなことなら何も知らずにすんだ方がどれだけましだったか、そういう矛盾を無視して宗教は考えられない。
これは、戦後、石原莞爾が連合国判事に言ったのと相通じる。
「日本はペルリが来る前までは、それなりに平和にやっていたのだ」
ペリーが来なかったら戊辰戦争もなかったというわけだ。
ともあれ遠藤周作の晩年作品『深い河』は、本当の最晩年の作で遠藤は、
「早く表紙をなでてみたい」
と日記に書いているから、余程、思い入れが深かったのだろう。
その遠藤が最後まで心の拠り所としていたのは、やはり母親で、純文学を書いている時はいつも母の写真を胸ポケットに入れていたというから、ここまで母思いの強い息子なら、さぞ親としては本望だろう。
最後に、本書を読むまで知らなかったが遠藤は3年半の壮絶な闘病生活を送り、どうも奥さんの話しを聞いていると病院、担当医、医療にかなりの不信感を持っているようで、生前、遠藤は「心暖かな医療を」提唱していたとある。
確かにその通りで私も大病経験が二度あるが医師に対する信頼度がなければ、とてもじゃないが病気を乗り切れない。
問題の『深い河』は息あるうちに間に合ったようで現在、遠藤作品は各国語に翻訳され晩年には文化勲章も授与されている。
宗教は本来、人間の救済を目的にし、文学は人間の根源を追求する。
この世に生まれたことより、何の為に生きているのか難しい問いを、これでもかと文士は書いてきた。
人間は多面体を持つ動物、見る角度よって随分異なった一面を持っている。
それを文字で表現する難しさ。
私もよく承知しているが、優れた文学者は、敢えてこの点に真っ向勝負。
遠藤先生も四つに組んで悪戦苦闘した結晶が、今、世界で認められているようだ。
では最近、映画化されたこの作品を以って了としたい。