愛に恋

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九月が永遠に続けば 沼田まほかる

 
本書はデビュー作にして第五回ホラーサスペンス大賞受賞作で著者56歳の作品。
解説者はこのように書いている。
 
無論、どの賞も建前としては作者の年齢などは考慮しないことになっているけれども、現実には作者の年齢、筆歴などは多少評価に関係してくるものである。
実際、新人賞の予選会などで、ほぼ同等の実力の応募者のどちらかを残さなければならに場合など「やはり将来性のある若い人のほうを・・・」と言った意見が出ることは珍しくない。
 
選考委員の中にはこんな意見の人もいる。
 
『九月が永遠に続けば』は文章力で大賞を勝ち取った作品です。
 
私も同感だ!
例えばこんな一説。
夫と離婚して久方ぶりに男に抱かれる場面で。
 
足首の犀田が触れたところが、軽い火傷の痕のように疼いた。彼の手が触れたせいで、どこか身体の深いところに眠っていた哀しみが目覚めてしまったらしかった。
 
これは素晴らしい文章でしょう!
なかなか、こうは書けない。
または!
 
女は、あるいは男は、ある年齢になると醒めた目で相手の実情を見つめながら恋に溺れるということが可能になるらしい。
 
優れた洞察力ですね。
小説家はやはりこうでないといけません。
更にはこの文章も気に入りました。
 
この俗物の上に胡坐をかいたような雰囲気を常に発散し続ける人物への、抑えがたい苛立ちだった。
 
そして私を感服させた文章がこれ!
 
たとえ愛のない妊娠であったとしても、と雄一郎は私に言った。愛のない妊娠。
その言葉にどれだけ苦しんだことか。愛情などなくとも抱きすくめずにいられない。
抱きすくめて我を忘れ、不用意に妊娠させてしまう。雄一郎のような男をそこまで駆り立てる亜沙実の何か、あの雄一郎に、医師としての熟練も、使命感も、家族を思う気持ちも何もかも捨てさせて、激情の中に引きずり込んでしまう亜沙実の何か、亜沙実にあって私ににはない、その何かのために、どれだけ胸をかきむしったことか。
 
こんな文章を読むと、当に本人に是非会いたくなる。
素晴らしい観察力だ。
また、母子の関係についてはこう書いている。
 
母親っていうのは、自分の命ごと子供に縛りつけられてしまっていて、自分ではそれをどうすることも出来ないんです。
 
ただ、内容的には少しグロテスクな相貌も垣間見えて、読んでいて多少不愉快な部分もある。
主要登場人物はそんなに多くはないが、それぞれの関係がやや錯綜しているので注意が必要。
しかし、この著者の凄いところは解説者も書いているが露悪的な場面を克明な描写で書いてしまうところだろうか。
私では躊躇してとても書けない場面だが。
 
ともあれ、500頁という長編だがかなりお薦めの1冊には間違いない。
 
 
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火花 又吉直樹

 
研ぎ澄まされた感性というのは高価な濾過器みたいなものだろう。
飲むに値する清涼飲料水を常に提供するだけの装置を兼ね備えているわけだが、これが芸術家の濾過機となると、清濁併せ呑ませる奇怪な濾過機を必要とするから一般販売はしていない。
才能が濾過機を作るわけだが、その濾過機がどのような仕組みになっているのか、例え、それを見ることが出来たとしても一般人には作ることが出来ない点が悩ましい。
 
例えばである。
ゴッホがスケッチしている風景を、その横で私も見ているとする。
しかし、ゴッホのようには描けない。
同じ風景を見ているのにである。
 
小説家の場合はどうであろう。
平安神宮の桜を私も見たが決して谷崎と同じように描写できない。
努力は才能を超えられないという格言があるが、果たして芸術家に必要な感性とは努力によって補っていけるものだろうか、私には甚だ自信がないのだが。
 
漫才師はどうか?
実際、漫才師にはならなかったものの、話し上手な人というのは我々の身近にもいる。
しかし、それが職業となると、笑いのツボのありかを知る努力が必要になるのではないか。
話芸を展開しだした時点で既に着地点の笑いが見えていなければならない。
 
まあ。能書きはいいとして、見つけてしまっては買わなければ意味のない本だった。
近所の古本屋で遂に『火花』の文庫本が私の訪れを待っていた。
こんな日がいつかくるだろうと予測していたのだが。
 
ところで芥川賞作品だが、過去、芥川賞受賞作で感動した作品というのに巡り合ったことがない。
故に今回もどうなんだろうかと懐疑的な気持ちのまま読み始めたが。
ただ、例年と違うのは受賞以前から作家のことを知っていて、尚且つ、固定概念があったという点だろう。
普通、芥川賞作家というのは受賞するまでは誰も知らないのが常である。
 
又吉直樹という人のイメージは。
大人しい、暗そう、言葉数少な、弁舌も爽やかではない、という概念だったが。
しかし、意外と言っては失礼だが、なかなか人間観察が鋭い。
オスカー俳優にはなれないが優れた演出家のような一面を垣間見た。
例えばこんな場面。
 
その日は、世田谷公園を一緒に歩いていた。辺り一面の木々はいかにも秋らしく色づいていたのに、なぜか一本の楓だけが葉を緑色にしたままだった。
「師匠、この楓だけ葉が緑ですよ」
と僕が言うと、「新人のおっちゃんが塗り忘れたんやろう」と神谷さんが即答した。
「神様にそういう部署があるんですか」
「違う。作業着のおちゃん。片方の靴下に穴開いたままの、前歯が欠けてるおっちゃんや」
 
「徳永、俺が言うたことが現実的じゃなかったら、いつも、お前は自分の想像力で補って成立させようとするやろ。それは、お前の才能でもあるんやけど、それやとフンタジーになってもうて、綺麗になり過ぎる」
 
主人公、徳永の師匠神谷は売れない芸人の割には、たまに理解に苦しむ哲学的なことを口走る。
その二人の会話が漫才の本質を突いているのか、人間の根源的なことを言っているのか解り難い場面が多々ある。
しかし、文学にありがちな、心のありかを見透かすような思考や言動は、本職がお笑い芸人がために、本作受賞後、周りに意外な一面を提供してしまって、1人浮いてしまうようなことがありはしないかと心配にもなるが。
 
最近、第二作が出来たと聞いたが、と同時にコンビ解消の話しもある。
又吉君は確かに作家として独り立ち出来る技量があることが、この作品で証明されたと思う。
 
 
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死の棘 島尾敏雄

 
それもこれも、梯久美子が去年出版した大著狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』を読むというミッションに駆られたことに他ならない。
『妻への祈り - 島尾敏雄作品集』『海辺の生と死』と読んで、  今回が第三段『死の棘』ということになる。
しかしまだ、『島尾敏雄日記―『死の棘』までの日々』『死の棘」日記』と読み計6冊読んで完結と計画しているので先が長い。
 
狂う人、いや、狂った人に憑りつかれてこんな本を読んでいるが、一体、島尾敏雄夫婦に何があったのか、私なりに解明しなくては気が済まない。
ところで、『死の棘』という本を誰かに薦めたいとは思わないが、理由として、実に陰鬱な気持ちになることが、その一つに上げられる。
他に島尾文学の文体にある。
 
どうしてこのような形態をとっているのか知らないが必要以上に平仮名が多い。
小学校で習うような漢字も敢えて平仮名で書いている。
更に閉口するのは改行が殆どなく、句点が少ないため読み辛い。
とにかく620頁に及ぶ文庫本は文字がぎっしり。
その為、10日間という日数を要してしまい、些か疲れた。
 
書かれていることは徹頭徹尾、妻の嫉妬と狂気。
夜を徹しての詰問。
諍いが高じて死ぬだ生きるだと際限のない争い。
もみ合い、掴み合い、取っ組み合い、両者、平手打ちの応酬。
 
何故、こんなことになってしまったのか。
妻ミホを狂気たらしめたのは、夫島尾の浮気が原因だが、どうも、約10年間に渡って島尾は外に女を作っていたらしい。
それをあろうことか、島尾が付けていた女との情交を記した日記をミホが読んでしまったことから際限のない争いが始まり、如いてはミホを発狂させる原因になってしまった。
 
しかし、どうだろうか。
古今東西、夫の浮気など珍しくもないが、それが原因で妻が脳に障害を来し、精神を病み入院まで発展するなどは、あまり聞いたことはないが。
問題が起きたのは昭和29年夏頃からとあるが、以来、この本は16年の長きに渡って書き継がれたものらしい。
 
思うに特攻隊長だった島尾が昭和20年8月13日、出撃を前に自決を覚悟したほどのミホは戦後、一途に島尾だけを愛したのだろう。
いや、愛し抜いたと言った方が正確なような気がする。
そのミホはこんなことを言っている。
 
「この手もこの足もみんなあたしが養ってつくったんだ。あたしが栄養に気をつけなければ、あなたはとうの昔に死んでいました。誰にも渡したくない。渡したくない。渡したくない。それなのにあなたはこのあたしというものを捨てて勝手なことをしていたのです。それもひと月やふた月じゃないの、十年ものあいだよ。がまんして、がまんしてきたのに、とうとうあたしは駄目になってしまいました」
 
二人には一男一女の子供が居るが、夫婦の間に諍いが始まると子供達は決まってこう言う。
 
「カテイノジジョウ、カテイノジジョウ」
 
島尾は、いつ始まるか分らないミホの発作に慄き、時に家を飛び出し、ベルトで自らの首を絞め、または拳骨で顔を殴り錯乱する。
逆にミホは電車の中や路上でも平気で島尾を殴り、女との10年間の行いを洗いざらい吐けと迫る。
一緒に風呂に入ったか。
物を食べながら一緒に歩いたか。
女に送った手紙を取り戻して来いなど、思いつくまま難題を吹っ掛ける。
 
毎夜、しかと抱き合ったまま寝たかと思えば、一転、一睡もしないでなじり出す。
病気は治った、もう昔のことは言わないと言ったかと思えば、あれはどうなった、これはどうなったと際限もなくぶり返す「カテイノジジョウ」。
いくら自分の浮気が原因とは言え、こう針の筵のような環境では、私なら到底堪えれるものではない。
しかし、逃げ出せば、必ず妻は自殺する。
もう、どうしたらいいのか。
こんなような記述もある。
 
「妻は夫を体で確かめようとする。
夫は強い緊張感があって心が安まらないから、あせって失敗しがちなのだ。
するといっそう猜疑のこころが起こり、夫から確かめを得るまではなんどでもためそうとする。火がつくと発作にはいることをくりかえす」
 
この件(くだり)はよく解りますね。
まだ、自分に愛情があるか否かを確かめる為に体を求める。
独占欲からも体を求める。
しかし、夫はセックスを義務として受け入れなければならないと思うと、どうしても思うようにいかない、いや、苦痛でしかない。
それを見た妻は、夫の心が離れたことを知り逆上する。
この時点でミホは常人の域を出て嫉妬に猛り狂っているわけだから、その様相が目に浮かぶようだ。
更に。
 
「あたしも女ですからね。二年も三年もひとりぼっちにして置かれて、黙っている妻がどこの世間にあるでしょう。あたしだって、あなたから満足を与えられたことはないのよ。妻のことばはいつ尽きるとも見当もつかない。そばを立つと、逃げるな、と言い、あぐらをかくと、正座してききなさいという」
 
ミホの発作は時間も場所も関係なく始まり、際限もなく続き、いつ終わるとも知れない。
そして。
 
「あなた、オギノ式の研究をしていたわね。あたしにも、その避妊法を教えてちょうだいな」
私は青冷め、からだがわなわなとふるえてくるのがわかる。このやりとりの行き着く先がどんなところかは明らかなのだ。
 
浮気相手の女の存在を恐れるかと思いきや、逆に殺しかねないような権幕になり。
寝ているところを起こされ詰問が始まり暴力沙汰になる。
挙句、絶食して死ぬと言い出す。
島尾も反撃に出る。
 
「おれのやったことなんかどうだってんだ。そんなに気に入らないなら、殺すなりなんなりすればいいじゃないか」
 
しかし、愛すればこその結果がこれなら、何か悲哀を感じずにはおれない。
何とか、宥めすかし、元の鞘に納めようと努力する夫。
元の鞘に納めたければ何もかも白状して、もっと誠意を尽くし愛情の限りを私に注げと言わんばかりのミホ。
そして、こんな言葉があまりにも哀しい。
 
寂しさをおさえてすがるような目なざしを送ってよこした妻のすがたが焼きついてはなれないのだ。この世で頼りきった私にそむかれた果ての寂寥の奈落に落ちこんだ妻のおもかげが、私の魂をしっかりつかみ、飛び去ろうとする私のからだを引きつけてはなさない。妻が精神病棟のなかで私の帰りを待っているんだ。その妻と共にその病室のなかでくらすことのほかに、私の為すことがあるとも思えなかったのだ。
 
悲しい、本当に哀しいね。
もし、私が島尾だったら。
もし、私が二人の友人だったら、いったいどうしただろうか?
そんな問いを残す作品だった。
因みに本作は日本文学大賞、読売文学賞芸術選奨を受賞し、映画はカンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞している。
 
 
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ハマクラの音楽いろいろ 浜口庫之助

 
私の場合、物心付いて最も古い記憶のヒット曲と言えば守屋 浩の『僕は泣いちっち』だろうか。
ちょうど、『ダッコちゃん』『フラフープ』が爆発的人気を誇っていた第1次池田内閣時代のことで、当然のことながらテレビに出ている人だけが有名人で作曲者のことなんか考えたこともなかった。
 
ハマクラこと浜口庫之助さんを知ったのがいつの頃か今となっては思い出せないが、年の差婚で美人女優の渚まゆみと結婚したことは何となく知っていた。
つまりハマクラさんに対しての知識はその程度のもので、後年、ハマクラさんへの認識を一変させたのは高田恭子が歌った『みんな夢の中』と、にしきのあきらの『もう恋なのか』の作曲者だと知った時からだった。
 
昔からこの2曲が大好きで、まさか、あのハマクラさんが作者だったとは長い間知らなかった。
こんな心優しい琴線に触れる曲を書く人だったと知って略歴を調べてみると何と!
 
・僕は泣いちっち
・涙くんさよなら
・愛して愛して愛しちゃったのよ
・星のフラメンコ
・バラが咲いた
・夕陽が泣いている
・夜霧よ今夜も有難う
・花と小父さん
・空に太陽がある限り
・恋の町札幌
・黄色いさくらん
・恍惚のブルース
・愛のさざなみ
 
など、多くのヒット曲を手掛けた人と分り改めてその才能に驚いた。
ハマクラさんが亡くなったのは1990年12月2日。
その翌年、唯一の著書である本書が出版されたが長く絶版状態にあったものをこの度復刊と聞いて、早速購入したわけだ。
 
余談だが私の父は大正5年生まれの七人兄弟で、ハマクラさんは大正6年生まれで七人兄弟。
戦後、父はアコーディオン奏者として横浜でバンドマンをしたいたらしいが、ハマクラさんはギター弾きとしてバンドマンとなったとある。
ただ、その後の違いは歴然で父は音楽の道に進まずハマクラさんは昭和28年から3年連続で紅白に出場、元は歌手だったとか。
そして『僕は泣いちっち』を皮切りに作曲家として大成功。
そんなハマクラさんの、こんな言葉を聞いたら現代のアイドルたちはどう思うか!
 
テレビは素人を甘やかした。
力のない素人を、その気にさせ、使い捨てにしている。
本当のプロというものは、ハンディがないということを知らなければならない。
プロとしてやっていける人、つまり天分があり、努力して、何か新しいものを創造できる人というのは、数多くいるわけではない。
一人の天才の出現は、底辺を広げ、次の天才を生み出すのだ。
 
ところで寅さんシリーズが始まる前、渥美清主演で『拝啓天皇陛下様』という松竹映画があったが、これを見ると錚々たる役者が出演していて驚くが、何と、問題の天皇陛下をハマクラさんが演じたと書いてあるが、私としてはすっかり失念している。
そのハマクラさんが再婚したのが昭和48年でお相手は27歳年下の渚まゆみというわけだが翌年生まれた子供はハマクラさん57歳の時の子供になる。
先日、阿川さんの第4子が51歳の時と書いたが、それを上回ること6歳。
尤も、あんな色っぽい奥さんではさもありなん。
 
ところで、どういう訳か最近のJポップには哀切、または哀愁を感じないが、これはひとえに昭和歌謡を作ってきた人たちが戦中派だったことが起因しているのだろうか。
戦火の中を生きぬいてきた者が感じた人生の儚さ、その無常観のようなものが昔の曲にはあったと思うがハマクラさんも言っている。
 
はかなさも分からなければならない。
 
更に歌手に対しては!
 
技術的な問題が大事なのではなく、聞く人の、心を打つような情感が込められているかどうかが重要なのだ。
 
そこなんですよね
例えば3年A組、B組、C組と何十人で歌われても情感というにはほど遠い。
人の心に響く、つまりお遊戯的に歌われて哀愁を感じることは出来ない。
いずれにしてもハマクラさん世代の人は全て歌謡界から去った。
今年は浜口庫之助生誕100年、厳しいお叱りをする人はもう存在しない。

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写真は右から川内康範浜口庫之助勝新太郎水原弘

本当に浮世はみんな夢の中ですね!

 
 
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「南京事件」を調査せよ 清水潔

 
好むと好まざるとに関わらず、結局、盧溝橋の一発が民族的対決を誘発してしまい、後世、おそらく永久に結論の出ない不毛の論争を招く結果になってしまった。
お隣の中国では「あった」と一貫していることが、我が国では結論が定まらないまま左右両陣営がいがみ合いヒートアップした激論には多少、辟易することもある。
思うに、「あった」とする側に立つ論客はどこまで行っても「あった」という論陣を張り、「なかった」とする人は、これまた逆の論法でゴリ押しする。
故にキリがない。
 
さて、この著者はどちらの側に立つ人物なのかと、この手の本を読むときは常にそういう気持ちで読み始める。
著者はこんなことを言っている。
 
「被害者人数論争」「虐殺の有無」は別問題と考えた方がよさそうだ。
 
なるほど、それは名案だ!
ところで、「虐殺」なる言葉だが、私が初めてこの単語に巡り合ったのは、例の甘粕事件を知った時のことになる。
大杉以下3人が憲兵隊本部で虐殺されたと、どの本にも書かれているが「虐殺」とは何ぞやと思ったのが当初の印象。
余程、惨い殺され方をしたのだろうかと誰もが想像してしまう。
 
では、虐殺に大が付く場合は何人以上なら大虐殺になるのか。
以前、読んだ本では例え1万人でも大虐殺になるというようなことが書かれていたが、私もそう思う。
いや、中国が公表している100分の1の3000人でも大虐殺に違いないと思う。
つまり、この問題で問われているのは、既に組織的な戦闘行為が終わった後の一般婦女子を含む民間人と俘虜に対する殺戮行為を言っているのである。
ハーグ陸戦条約の「兵器を捨て、または自衛の手段が尽きて降を乞う敵」への残虐行為を指しているわけだ。
 
ともあれ、事実を知るには第一次資料に当たらなければならない。
そこで著者が探し出した福島県在住のある人物が90年代に集めた31冊の陣中日記なるものに着目する。
当時、南京に出兵した六十五聯隊は福島県出身者で何が起きたのか聞き取り調査をしていた人物がいたというわけだ。
 
ちょっとおさらいをするが盧溝橋事変勃発は昭和12年7月7日。
そして第二次上海事変が8月13日から始まる。
不拡大派の石原莞爾と河辺虎四郎らが拡大派の武藤章、田中新一に押し切られる形となり政府も以下の声明を出す。
 
「もはや隠忍の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、以って南京政府の反省を促す」
 
派兵された上海派遣軍の任務は。
 
「上海付近の敵を掃討し上海並其北方地区の要線を占領し帝国臣民を保護すべし」
 
司令官は松井石根大将。
当時の上海には2万人を超える日本人が在住していた。
実はこの中に私の父を含む我が一族、つまり祖父母と7人の子供達がいたのである。
現地大学の学生だった父は、丁度、その8月に特務機関に徴用され戦いに参加した。
故に私にとって、いや、我が一族にとって重大な岐路だったはず。
因みに事変というのは宣戦布告なき武力行為のことを言う。
 
当初、頑強に抵抗を続けていた国民党軍は次第に退却を余儀なくされ南京へ敗走。
それを追って日本軍は追撃。
そして12月13日、南京陥落となるわけだが、どうもここで問題になっているのは12月16日から17日にかけての蛮行を言うらしい。
松井司令官と朝香宮殿下の入城式があったのが17日。
しかし、その裏では秘密裏に3千とも5千とも1万以上とも言われる捕虜が機関銃で殺害されたと帰還兵の日記にはある。
これをどう見るか。
 
全員殺害という命令の為、乱射後に銃剣で一人ひとり止めを刺したとまで書かれているが、否定派は日記そのものが偽物だという。
虐殺のあった場所は揚子江沿いの鳥龍山、幕府山砲台付近という所らしいが、否定派はこのようにも言っている。
捕虜の間で暴動が起き、それを鎮圧するために発砲したと。
つまり南京事件ではなく単なる幕府山事件だと。
これは初めて聞いた言葉だ。
 
しかし、こういう説もある。
当時、南京には20万人程度しか市民が居なかったのに何故30万人も殺せるか。
が、南京周辺には100万人の人口があったという説もある。
それに市民に紛れた便衣兵の数はどのくらいになるのか。
 
では、公式記録はどうなっているかといえば、それらのものは殆ど存在しない。
知っての通り、終戦となった15日以降、軍は重要記録の殆どを焼却してしまった。
だが「あった」説にも疑問が残る。
先の通州事件の復讐という意味合いも理解は出来るし、婦女子の暴行も当然のように行われたことは否定しない。
しかし、条約違反となる俘虜の大量殺害など何ゆえ必要だったのか。
この本には確かに1万数千人の殺害を明記したような手帖も出てくるが、どこにも数十万の殺害は出てこない。
 
しかるに旅団命令により捕虜は全員殺害とあるが、その命令は誰が下したか追及されていない。
少なくとも松井司令官ではないはずだ。
やはり、釈然としないものは残る。
最後に著者の祖父は日清日露の役に参戦し、父親満州で捕虜になりシベリヤ送りとなったとある。
 
私は著者より幾分年上だが、あの戦争に父が参戦して尚、生き残ったからこそ今の私や著者も存在するわけで、もし、戦死していれば私は生まれてこなかったということになる。
両軍に多くの戦死者を出した支那事変や太平洋戦争。
それによって後世、生まれてくるはずだった子供の「私」というものの存在が消える。
確かに戦争とはそういうものだ。
歴史の大きなうねりの前に翻弄された我が一族。
重症を負いながらも無事帰還した父あればこその私なのだ。
 
 
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末の末っ子

 
昭和ファミリー小説の決定版とあるが確かに面白い。
まず、タイトルがいい!
『末の末っ子』、つまり予定外の妊娠出産だったというわけだ。
阿川弘之氏には三男一女の子があり、その三男誕生が51歳の時とある。
まるで孫のような年齢差の子供が産まれ、周囲から冷やかされたりからかわれたりの顛末を私小説風に書いた作品のようだ。
 
阿川さんの世代は第三の新人と言われたグループで、中でも遠藤周作吉行淳之介開高健北杜夫らとは親友だったようで、まさに素晴らしき仲間達哉である。
しかし、皆さん鬼籍に入られたことが残念でならない。
 
ところで、本文には仮名を使って遠藤周作吉行淳之介が登場するが、こんな会話が面白い。
事の真相を吉行淳之介から聞いた遠藤周作が阿川にこう言う。
 
「人のことを飲み打つ買うと言うけど、飲み打つ買う産むというのが居るけど知っとるかね君」
 
妻の妊娠を知って焦った本人は、取り敢えず紹介された病院へ血液検査に出向く。
医師との会話・・・!
 
「何か自覚症状がおありですか?」
「いや、それは別にないのですが、7月に3週間ばかり、東南アジアを旅行しまして」
「はあはあ」
「旅行中、何度かそういう機会がありましたもので・・・」
「予防措置はなさいませんでしたか?」
「しませんでした」
 
「そして帰国後、うちでつとめを果たしましたところ、思いがけずこういうことになりまして」
「はあ、なるほど」
 
阿川さんという作家は失礼ながら勤勉実直な堅物かと思っておりましたが、意外と人間臭いところがあったんですね。
更に遠藤周作に秘書候補を紹介してもらった後の会話も面白い。
 
「乃木大将と東郷元帥と、どっちが陸軍でどっちが海軍かも分からない。志賀先生の作品もほとんど読んでないらしい。折角の御紹介だが、どんなもんだろうなあ」
「いやならやめろよ」
 
ところで阿川弘之という人は戦後、志賀直哉に師事したことは有名だが、こんな言葉で讃えている。
 
大正昭和の日本文壇に「名山」の如く立っていた志賀先生。
 
更に私は知らなかったが志賀直哉が好きだった唐詩を紹介している。
折角なのでここに記載したい。
 
君去ツテ春山誰ト共ニ遊バン
鳥啼キ花落チ水空シク流レン
如今別レヲ送ツテ渓水ニ臨ム
他日相思ハバ水頭ニ来レ
 
なるほどね!
阿川さんは論語のこんな言葉を引用しているが、長命を保つだけでは駄目で人間としての尊厳のような意味合いを感じるが。
 
其ノ人トナリヤ、発奮シテハ食ヲ忘レ、楽シンデハ憂イヲ忘レ、老イノマサニ至ラントスルヲ知ラザルノミ
 
本書の解説は「末の末っ子」として生まれた阿川淳之さんが書いているが、吉行淳之介遠藤周作が亡くなった頃から老いていったとある。
 
友は野末の石の下
 
小説は面白かったが、何か、阿川さんの気持ちが憑依したようで私まで哀しくなる。
 
 
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ゲーテさん こんばんは 池内紀

 

文豪ゲーテなんて知らないもんね~!

ショーペンハウアー、カント、パスカル、シラー、ハイネ、な~んにも解りません。
だから、私も訪ねてみたくなった。
ゲーテさん こんばんは」
そして、話しを訊いてみた。
だが、やっぱり解らなかった。
ただ、天才はダ・ビンチ、エジソン、そして平賀源内の例に洩れなく何にでも首を突っ込みたくなるということは解りました。
 
25歳で書いた『若きウェルテルの悩み』が各国で翻訳され、かのナポレオンが9回も再読し、1808年、わざわざ自宅を訪問しナポレオン勲章を授与したとか。
日本では澁澤龍彦ゲーテの『イタリア紀行』にはまり生涯の愛読書になったとあるが、こっちとら『若きウェルテルの悩み』も『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『ファウスト』『イタリア紀行』と、な~んにも読んでないもんね~だ。
 
だからクリスティアーネなる女性と結婚したのが57歳になってからなんて全く知りも存じもしません。
ところでゲーテさん、ワイマール公国の枢密顧問官、内閣主席、財務局長官だったんだってね。
全く勉強不足でして、つまり文人宰相だったわけだ。
 
しかし貴方は凄いね!
大変な石マニアで、その数19000点。
待たせた馭者がうんざりするぐらい旅に出ては石集めに熱中。
さらには骨相学、懐中時計と興味を示し、留まることを知らない知識欲は野菜、果物と範囲を広がる一方。
 
ブナ、トウヒ、リンゴ、ゼニアオイ、スミレ、バラ、ヒヤシンス、ツリガネソウ、イチゴ、アスパラなど虫眼鏡で観察し、花弁を調べスケッチを取り、詩に歌い、友人に手紙を送り天才、暇なしですね。
 
財政逼迫する公国の仕事に悩みながらも、貴方は自然科学の分野に手を伸ばす。
天文、気象、物理、地質、鉱物、植物、美術、文藝、劇とあらゆる分野に旺盛な好奇心は釘付け。
更に人体の骨を観察、植物の変種に注目、プリズムの原理にもとづく実験を重ね光学理論を考える。
何もかも私には分かりません。
 
そして究極の決断、73歳で妻を亡くした貴方は翌年、つまり74歳の時に19歳の少女に求婚する。
何たる離れ業!
結局は実らなかった恋だが、そんなことで貴方はめげません。
70歳を越して尚、貴方は矢継ぎ早に大作を完成させる。
 
『西東詩集』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『穏和なクセーニエン』『イタリア紀行』自伝『詩と真実』『ファウスト』第二部は82歳で完結。
私が理解出来たのは、貴方のこんな言葉。
 
気力をなくすると一切を失う
それは生まれてこぬがいい
 
貴方は1832年、83歳で亡くなっているんですね。
ちょうど100年後の1932年、ヒトラー率いるナチ党が選挙で第一党となり連立政権を組閣、貴方の理念を下敷きにしたワイマール共和国の終焉の年でもあるんですよ。
ところでゲーテさん、貴方はナポレオンだけではなくベートーヴェンとも同時代人だったんですか。
 
1812年7月19日にお会いしたとありますが。
貴方は書いていますね。
 
「その才能には驚かされましたが、残念ながら彼はまったく抑制のきかぬ性格で、そのため自分にも他人にも、世の中を暗いものにしてしまうのです。もっとも聴力がだめになっているので、無理からぬことがあり、たいそう気の毒でもありました」
「もともと無口な男が耳のせいで、倍もものを言わなくなっているのです」
 
そうでしたか、ベートーヴェンとは、そういう人だったんですか。
欲を言えば、そこにナポレオンも居ればなお歴史ファンとしては興味があるのですが、この時期、ナポレオンはモスクワ遠征の頃でしょうかね。
しかしゲーテさん、私は騙されましたよ。
一見、取っつき易いタイトルで買ってしまいましたが、意外に難しい本でした。
というより、貴方が日頃考えていることが難し過ぎるのですよ。