愛に恋

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サザンオールスターズ 1978-1985 スージー鈴木

世に音楽評論を生業にしている人がどれだけ存在するか知らぬが、ひとりのアーティストにスポットを当て、生涯に残した全作品の解説レビューを書くなどという離れ業をやってのけた人といえば、少なくとも私個人としては先年、お亡くなりになった中山康樹さんしか知らない。
ジョン・レノンを聴け』『ディランを聴け』『マイルスを聴け』『ビーチ・ボーイズのすべて』『ビートルズ全曲制覇』『ローリング・ストーンズを聴け!』『超ジャズ入門』など著書多数だったが、その中山さんが生前、ただ一人、取り上げた日本人アーティストが『クワタを聴け!』、つまり桑田佳祐だった。
2007年2月21日発行で、最後の楽曲は『太陽に吠える‼』で終了している。
以来、約10年、サザン、ソロ名義で桑田も多くの楽曲を手掛けて来たので、そろそろ続編をと期待していたのだが訃報を聞いて驚いた。
いくらサザン・桑田が国民的メガバンドであり歌手であったとしても全曲解説となると、そう容易いことではない。
例えば『美空ひばりを聴け。全曲解説』なる本が存在しない理由も頷ける。
別に満を持していたわけではないがスージー鈴木なる評論家がこの度『サザンオールスターズ 1978-1985』なる本を出版した。
新聞には「たちまち増販」とあったが果たしてどの程度売れているのか。
しかし何故、85年で終わって仕舞うのか、そのあたりがよく解らぬ。
著者は私より10歳以上年下なので、年代的ギャップがあるが、まあ、それはいい。
初めにこんなことを書いている。
桑田という人は、音楽的知識、経験が非常に深い人で、ボーカルスタイルの源流も多岐にわたってしまい、やや複雑な話しになることを、ご了解いただきたい。
本題に入る前に私個人の『サザン 1978-1985』を少し開陳したい。
ザ・ベストテン』で、あの有名な「いえ、目立ちたがり屋の芸人で~す」とほざいた78年の8月31日、たまたま私はその日の番組を見ていた。
後に吉田拓郎が言った「どこにもロックのロの字もなければフォークのフォの字もない」あの見っとも無い姿のデビュー曲を聴いてしまった。
ビートルズ以前、ビートルズ以後」と良く言われるが、私にとっては「桑田以前、桑田以後」の始まりになったわけだが、それはあくまでも結果論で、まさに1985年までのサザンは歌謡曲と出鱈目ロックの融合とでも言うか、即ちどうでもいい音楽だった。
画面で見る桑田はまるで軟体動物のそれで意味不明の歌詞のオンパレード。
全く世も末とばかりの印象だったが、86年、桑田は突然変異のように豹変し私の感性を大きく揺さぶった。
中学以来、洋楽一辺倒の私を驚愕足らしめたのは最も嫌悪していた、その桑田佳祐だったのである。
クワタバンドがリリースした「BAN BAN BAN」と「スキップ・ビート」を店頭で聴いた時の衝撃!
圧倒的な洋楽センスと到底日本人とは思えぬ歌唱法に度胆を抜かれ、早速、ドーナツ盤を買って聴きまくった。
古い話しで恐縮だが弘田三枝子以来、こんなボーカリストを日本人では知らない。
以来、桑田なるアーティストの感慨も一変。
時を同じくして丁度、その頃付き合っていた女性に「好きなら上げるよ」といってダビングしたサザンのテープを何本か貰った。
そして出会った「Oh!クラウディア」。
驚きましたね、「いとしのエリー」では瓢箪から駒程度の認識しか持てなかった私が『Oh!クラウディア』を聴いた時には「ひょっとして、こいつは天才かも知れない」という思い。
決定打となったのは、ある年の夏、郡上八幡の徹夜踊りに向かっていた車中で聴いた「旅姿六人衆」と「東京シャッフル」。
特に「東京シャッフル」の斬新さ、デキシーランドジャズを思わせるノリはビートルズの「レディ・マドンナ」を彷彿させる名曲で、とても20代の日本人が作ったとは思えない出色の作品。
きっかけはともあれ、以来、桑田佳祐の多面的の才能を自分なりに研究してみた。
 
桑田サウンドの礎となった洋楽。
歌唱法。
楽曲のタイトル。
横文字に聴こえる日本語歌詞。
アレンジ。
楽曲バリエーションの広さ。
どんなジャンルでも歌いこなせる才能。
 
著者が「勝手にシンドバッド」を聴いたのは小学6年と書いているが邦楽か洋楽かさえ分からなかったと言っている。
だいたい、そのまでの歌謡曲に、「いま何時、そうねだいたいね」なんていうふざけたフレーズがあっただろうか。
「胸騒ぎの腰付き」という歌詞からして文法的には間違っているし「あなた悲しや天ぷら屋」「たまにゃMaking love ぞうでなきゃ Hand job」三波春夫さんなんか、実際、こんな歌詞をどう思っていたのか訊いてみたいところだ。
しかし、今にして思えば桑田のデビューは歌謡史上の革命だったかも知れない。
因みに10月12日のベストテンを見ると。
 
1位 世良公則&ツイスト 銃爪(ひきがね)
2位 堀内孝雄 君の瞳は10000ボルト
3位 山口百恵 絶対絶命
4位 サザン 勝手にシンドバッド
5位 西城秀樹 ブルースカイブルー
6位 野口五郎 グッドラック
7位 沢田研二 抱きしめたい
8位 ピンク・レディ 透明人間
9位 アリス ジョニーの子守歌
10位 郷ひろみ ハリウッド・スキャンダル
 
懐かしい曲ばかりですね!
更に79年には『月間明星』に年3回も表紙を飾っているらしい。
4月号は榊原郁恵、9月号大場久美子、そして12月号は山口百恵と共に。
全然知らかった!
しかし、初期のサザンは話題性はあってもセールス的にはあまり売れていない。
だが、こんなことを言っている人もいる。
例えば村上龍
 「桑田の歌詞はデリケートだ。デタラメな日本語というバカが大勢いるが、桑田ほどデリケートな歌詞を書ける人はいない。そう、革命的にデリケートなのだ」
 
また、川勝正幸はこうも言う。
 
桑田佳祐と、タモリのいない日本を、僕らは想像できないし、したくない」
 
確かに私も同意見だが、著者と見解を異にする記述もある。
『Oh!クラウディア』のクラウディアとは梅宮辰夫夫人のクラウディアだと書かれているが、さすがにそれは違うだろう。
桑田がイタリア人のミーナが好きなことは周知の事実だが、私や桑田の世代でクラウディアと言えばクラウディア・カルディナーレを於いて他にいない。
しかし、以下の意見には同調する。
 
「ロックミュージシャンは、いつも強面で仏頂面でなければならない」
 
という感覚が当時の音楽界を支配していた中で、コミカルな側面を全面に押し出してきた桑田は、やはり偉大だった。
 さらに言えば桑田の作詞法はどことなく点描的である。
文法などは取り敢えず無視。
適当に思いついた単語をパズルのように嵌め込んで行く。
つまり、全体的なバランス感覚で纏め上げる。
意味など解っても分らなくても何となく色合いの調和が取れればそれでOK。
勿論、メッセージ性の強い曲や意味の通ったバラードなどもあるが、あくまでもサウンド重視のように思う。
つまり、洋楽など意味が解らなくても曲が好ければ全て良し、そういう感覚とも似ている。
とにかく、これだけははっきり言えるがジャズ、ブルース、ロック、フォーク、オールディーズ、またはギターサウンドなど、かなり幅広く洋楽を聴き込まないと桑田佳祐の解剖理論を展開できない。
私から見た桑田という人は超人的な音感の感性の持ち主で、豊富な洋楽知識を一端、解体し、都合よくバランスの優れた邦楽ロックに変化させてしまったと言える。
歌詞においては猥褻というものを鈍化させてしまい、いつの間にか桑田が歌うエロソングはアンダーヘアー解禁のように国民は取り立てて問題にしなくなってしまった。
これは良くも悪くも桑田の既得権益で珠玉のバラードと突飛な開脚ソングなどで見事な両天秤を自在に操り今日の不動の地位を築いて他の追随を許さない。
桑田佳祐という男は一見、軽薄短小と見せながら、かなりデリケートで孤高の存在。
天才にしてスーパースターでありながら時に発言はお下劣。
昔と違いお出ましも年間にして数回。
会いたくても実際にはなかなか会えない「目立ちたがりやの芸人」になってしまった。 

辻潤の愛 小島キヨの生涯 倉橋健一

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大正時代、新宿で中村屋というパン屋を営んでいたといえば相馬黒光夫妻のことだが、その相馬夫婦に支援を受けていた夭折の天才画家が中村彝(つね)である。
中村の代表作は盲目のロシア人を描いた『エロシェンコ像』だが、彼もまた相馬夫婦の支援を受けていた縁で中村はエロシェンコを知ったのだろう。
他の作品では相馬夫婦の娘俊子の裸体画などを描いているが、どうも二人の間は男と女の関係にあったようだが結婚には至らなかった。
 
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その中村が結核で体力が著しく低下していく大正9年頃、描いていたのが、この『椅子によれる女』だが、モデルは小島キヨ。
作家に憧れて上京したキヨは当時18歳。
ルノアールを崇拝していた中村の目に留まったキヨは当時としては珍しく大柄で豊満な肉体で、中村としては理想のモデルだったのかも知れない。
 
しかし、今回、私が追い求めているのはモデル小島キヨではなく、辻潤の妻、小島キヨなのである。
辻潤、つまり世間で言われるところのダダイスト辻潤である。
大正デカダンスを地で行くような、酒と女と尺八、そして究極の餓死。
強烈な個性の辻を愛した小島キヨとは如何な女性であったのか。
 
辻の先妻は憲兵隊に殺害された、あの伊藤野枝だが、野枝が辻の下を去った原因は谷中村の足尾銅山事件で、事件に興味を示さない辻に愛想を尽かしたものと思われる。
それが大正5年頃のことではないだろうか。
その二人の遺児が後年自殺した画家の辻まことというわけだ。
 
さて、キヨが辻潤を知ったのは大正11年7月1日とある。
労働同盟会主催の思想講習会に出かけて行き、そこで知り合ったらしいが、以来、二人はただれた関係を結ぶように交際を続け、長男秋生をもうけるが、辻の生活態度が荒れだしたのは震災で伊藤野枝殺害の報を聞いたころからか、連日、仲間内で集まっては酔って乱闘騒ぎを繰り返し、居場所も定まらず、定収入もないまま、酒を求め女を求め乱闘に明け暮れる。
 
時に全国行脚ならぬ虚無僧のような恰好をして尺八を吹きながら人家の前に立ち、強いては精神異常で病院への入院。
大正の末期は一定の職業を持たない知的労働者が溢れた時代で、彼等は下宿から下宿へ転々と居所を変え、それでも何とか生きていける時代だったらしい。
が、肝心のキヨ本人も大の酒好きで金も飯もないまま仲間と管を巻いては酒浸りの日々を過ごしていたとあるから、一体、みんなはどうやって生活しているのだと訝しむ。
 
そんなキヨを悩ませたのは辻の女狂い。
そして連日、酔っては議論し歌い踊り喧嘩となりキリがない。
一体、辻潤とはどのような人だったのか。
彼はこんなことを書いている。
 
「耶蘇は小便をしても手を洗わなかったり、酒を呑んだり、淫売と交際したり、漁師と友達だったり、したということであるが、僕も実に交遊天下に普く、虫の好く人間ならその境遇と職業と主義と人格と美醜と賢愚と貧富とエトセトラの如何を論ぜず友達になる。だから、僕の交遊の種類はまことに千差万別で、僕はどうやら社会の職業は文士であるようではあるが、文士や芸術家以外に職人、役者、商人、相場師、落語家、娼婦、社会主義者、船乗り、アナキスト、坊主、女工、芸者、その他なんでもござれである」
 
つまり、誰とでも話せ仲良くなったと言っているわけだ。
しかし、結局は乞食行脚となり昭和19年11月24日、アパートで餓死しているところを見つかった。
辻と別れ、仲間内の玉生(たまにう)謙太郎と再婚したキヨは相変わらずの極貧生活で子供を出産。
 
戦後、辻との間にもうけた秋生がフィリピンで戦死したという公報も届き、辻とキヨの関係をどう解釈したらいいのか読了してからもよく解らなかった。
酒と女に溺れていく辻を諦め切れなかったキヨ。
自らも酒と男で孤独を紛らわしていく極貧生活。
辻潤という男をどう見たらいいのか。
先妻は殺され、後妻はアル中、自らは餓死。
枝との子供は自殺、キヨとの子供は戦死。
近代史に名を残したはいいが、それにしては悲惨な最期。
私には出来ない生き方だ。
 
この本は、残されたキヨの日記を元に書かれているが貧困を抜けきれないまま生涯を閉じたキヨにとって何が幸福だったのか。
しかし、アル中の割には78歳まで生き、こうして本に書かれる存在でもある。
それが唯一の慰めか。
 
 
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もっと知りたい ミュシャの世界

私にとって好奇心の対象となる人物、それは、何を残したかというよりは、どう生きたかという方に重点が置かれる。
そういう意味では大芸術家ゲーテも乞食行脚の辻潤も同列と考えている。
で、今回の対象者はアルフォンソ・ミュシャだが、この一見、男だか女だか分らない名の人物、誰しもが、その作品から知名を得ることが多かろうと思う。
 
私もそのひとりだが、更に、永年私を惑わせた問題にサラ・ベルナールイサドラ・ダンカンの混同。
同時代を生きたこの二人の区別が紛らわしく苦しんで来た(笑
更に言わせてもらえば、ミュシャが書いたサラの絵が、あまりにも繊細なタッチだった故に作者は女性と思い込んでいた。
 
まあ、それら昔の話しはともかく、実際は髭もじゃ男、アルフォンソ・ミュシャとは何者なのか。
1860年モラヴィア、つまり現チェコ共和国生まれということになる。
なるほど、その生涯を考える上で最も大事なのはスラブ民族という点だ。
日本人は戦後の7年間、アメリカの統治下にあったという体験はあるものの、チェコのように300年に渡って国家が消滅していたような経験はない。
従って、チェコを代表する二人、即ちスメタナミュシャのような芸術家は民族の独立という強固なイデオロギーを持った上での、あの大芸術だったと言うべきかも知れない。
 
余談が永くなったがアルフォンソ・ミュシャの家系は芸術とは何の関係もない普通の家柄だったとある。
父は公務員、母は粉屋の娘、しかし、手先の器用な少年は音楽や美術に関心が強く、何でも運命を変えた出来事というのは、全くのifから始まったと言う。
ある時、ボヘミア方面に向かう列車の車窓から外の景色を写生していた。
その後、何を思ったのかミクロフという駅で意味もなく下車し、たまたま立ち寄った店で車内で描いた絵を見せたことから、そのあまりの出来栄えにみんなが驚き、地元の名士の肖像画の依頼が舞い込み、この見知らぬ町に長期滞在ということになった。
 
そして運命の人、ミクロフの大地主クーエンーベラシ伯爵、弟のエゴン伯爵の御眼鏡にかないパトロンの座を約束してもらうことになった。
運命の糸とは本当に分からないものだ。
更にはエゴン伯爵の友人の紹介でミュンヘンのアカデミーに進学。
そして2年後にパリ留学。
人生最大の転機が訪れたのは1894年12月のクリスマス、サラ・ベルナールが正月公演で主演を務める新作『ジスモンタ』のポスター制作の依頼が舞い込んだ。
 
ポスターなど描いたことがなかったミュシャだったが、ここが勝負どころと判断、二つ返事でOKサイン。
これが12月28日、そして元日に『ジスモンタ』を完成、即座に印刷所に回され、それがパリの街中、至るところに張り出され一躍時代の寵児となっていった。
その後、サラはミュシャと6年間の契約を結び栄光の時代の訪れとなる。
 
しかし、ミュシャ最大の目標はポスターとしての絵描きではなくスラブ民族の苦難を描く『スラブ叙事詩』完成にあったのだろう。
この大作20点は見るからに壮大な絵巻で一点の横幅が何と6メートルを超す大作。
順番に言うとこうなる。
 
1 原故郷のスラブ民族
2 ルナヤ島のスヴァントヴィト祭
3 スラブ式典礼の導入
4 ブルガリア皇帝シメオン
5 プジェミスル朝のオタカル2世
6 東ローマ帝国となったセルヴィア皇帝シュテパン・ドゥシャン
7 クロムニェジージェのヤン・ミリーチ
8 グリュンヴァルトの戦い
9 ベツレハム礼拝堂で説教をするヤン・フス
10クジージュキでの礼拝
11ヴィトコフ丘の戦いが終わって
12ペトル・ヘルチツキ
13フス派の王イージー・ポジェブラッド
14ニコラ・ズリンスキーによるトルコに対するシゲトヴァール要塞の防衛
15イヴァンチッツェの兄弟団学校
16ヤン・アモス・コメンスキー
17聖アトス山
18スラヴ菩提樹の下でのオムアディナの誓い
19ロシアの農奴性廃止
20スラヴ賛歌
 
サラを描いたポスターの数も凄いが、これら『スラブ叙事詩』を描くにはよほどスラブ史を勉強しなければ描けない。
1918年、悲願の民族独立。
長いゲルマン民族から独立を勝ち取ったスラヴ人
その民族独立の集大成が『スラブ叙事詩』だったが、1939年3月、チェコに侵攻したドイツ軍、そしてゲシュタポによる逮捕。
 
「作品が国民の愛国心を刺激した」
 
が、逮捕の決め手だった。
78歳になっていたミュシャは激しい尋問に耐え切れず7月14日に死去。
スラヴ人だから当然、民族を鼓舞する絵も描くだろう。
それがゲルマン民族からすれば気に入らないとは至極、理不尽な。
だが、それが戦争というものだ。
ミュシャは絵画やポスターにとどまらず工芸品やブロンズ像などでも素晴らしい作品を残しているが、今日、それらは人類の財産だろう。

上海 横光利一

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織田 作之助 昭和22年1月10日
横光 利一  昭和22年12月30日
菊池 寛   昭和23年3月6日
太宰 治   昭和23年6月13日
 
この時期、文壇はたった1年半年足らずの間に4人もの流行作家を亡くしている。
しかし今日、織田作、菊池 寛、太宰 治の再燃はあっても横光利一ブームなどは聞かない。
新感覚派の旗手として戦前戦中を通し、文壇の象徴的存在だった横光は消え、親友の川端康成が残った。
小林秀雄はこう言っている。
 
「小説では一流になったが人生で敗れた」
 
また、岸田國士はこうも言う。
 
「才能を裸のまま見せなければ承知しない日本の文壇の気風の中で、横光君は、華々しくはあったが、ずいぶん苦しい道を歩いた」
 
だが、白樺派とは肌が合わなかったようだ。
では、横光らが標榜した新感覚派とはどんな文学なのだろうか。
1925年の表現ではこうなる。
 
自然の外相を剥奪し、物自体に踊り込む主観の直感的触発物
 
さっぱり解らず。
プロレタリア文学と対立し、自然主義派を古臭いと弾劾し、白樺派に嫌われる文学。
私個人は耽美派荷風や谷崎、自然主義派の藤村、白樺派の志賀や里見、そして横光一派の川端など嫌いではないが、どうもこの横光利一だけは馴染めない。
何故か!
 
会話が合理的とは思えない。
一方的で冗舌に過ぎる。
情景描写が妙に長い。
川端と比べ、文体に美しさがない。
故に横光文学は滅んだのか・・・?
いや、その点は私みたいなものには分からない。
第一、私の好きな里見文学も現在では読まれていない。
両者が読める文庫は講談社文芸文庫と岩波だけだ。
 
これこそは自然淘汰ということになるのか。
さて、『上海』に付いても少し触れねばならぬ。
横光が上海に行くきっかけになったのは芥川の一言だったらしい。
しかし上海に降り立ったのは芥川の死後、昭和3年4月とある。
小説の題材は1925年に上海で起きた五・三〇事件。
「租界回収」をスローガンにした反日・反英運動の不穏な戦争前夜の国際都市上海の深い息づかいを伝えているわけだが、入り組んだ男女関係など、私個人は読み進めるのが大変だった。
 
白樺派じゃないが、どうもそりが合わない。
ただ、魔都上海が当時、如何に治安が悪かったかは少し分かったような気がする。
結局、私には馴染めなかった横光文学だが川端の弔辞は悲痛と慟哭が滲み出る名文だ。
 
横光君。ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭った。(略)
君の骨もまた国破れて砕けたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新たな同情を通わせ合い、再び行路を見守り合っていたが、君は東方の象徴の星のように卒(にわか)に光焔を発して落ちた。
 
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梨本宮伊都子妃の日記―皇族妃の見た明治・大正・昭和

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久々に大阪天満にある天牛書店に足を運んでみた。
流石に大阪随一の古書店だけあっていつ行っても客は多い。
私が見るコーナーは毎度決まっていて文庫本全般、歴史、戦記、伝記、評伝、美術、映画、文壇史や日記といった類。
追い遣るように背表紙を見ていく中、ある本に目が留まった。
 
『梨本宮伊都子妃の日記―皇族妃の見た明治・大正・昭和』
 
ふん、このタイトルには見覚えがある・・・?
文庫本ではなく単行本で出版された頃、よく書店で見かけ買うかどうか迷ったような、だが何をどう迷ったのか思い出せない。
本を手に取りページを捲っていくうちに記憶が蘇ってきた。
そうだ、特大版ゆえに買うのを躊躇っていたあの本が、いつの間にか文庫化されていたのだ!
奥付を見ると1991年11月に出版され2008年11月に文庫化とある。
 
知らなかった、天牛書店を訪れなかったら或は永遠に出会わなかったかも知れない。
それほど巡り合うことの稀な古書文庫ではないだろうか。
明治・大正・昭和の三代、77年間にわたって書き綴った日記でかなり長いが、これを読まずしては死ねない。
しかし、梨本宮伊都子妃と言っても誰のことやら分からない人も多いと思うのでまずは簡単に、その系譜から紹介しなくてはなるまい。
 
生まれは明治15年で旧名は鍋島伊都子。
父は肥前佐賀藩最後の藩主鍋島直大(なべしま なおひろ)侯爵。
つまり薩長土肥肥前大隈重信は家臣ということになる。
名前の伊都子は当時、直大が駐伊特命全権公使だった関係でローマで生まれたことに由来する。
その伊都子が梨本宮守正王と結婚して生まれた娘、方子(まさこ)が後に朝鮮王朝の李王世子と結婚した人と言えば分かるだろうか。
 
余談だが明治31年の『日本経済史』による高額所得上位者という表がる。
それによると上位陣は政商と旧大名家の華族によって占められ。
 
1位、岩崎
2位 三井
3位 加賀前田
5位 薩摩島津
7位 長州毛利
9位 紀州徳川
10位 讃岐松平
11位 安芸浅野
12位 尾張徳川
15位 佐賀鍋島
 
因みに鍋島家の年間所得は109,093円。
といっても解り難いが『日本之下層社会』という本によると東京貧民は人足、車夫、くずひろい、芸人などで日当は32銭程度。
つまり年中日無休で働いたとしても年120円ほどで、華族鍋島家との差は歴然だ。
 
だが、財産はともかく身長の低いことが伊都子の悩みで記録によると四尺九寸八分というから151㎝ぐらいしかなかった。
それにしても、まあ日記は仔細を極め趣味の欄には以下の記載がある。
 
琴、かるた、写真やきつけ、活動写真、油絵、蓄音器、玉突き、トランプ、テニス、花火、自動車運動、買い物、つみ草、栗ひろい、ラヂオ、マージャンなど。
 
自動車運動とはドライブのこと。
大正10年3月5日に初めて木村屋のあんぱんが登場するが、あんぱんは女官たちの間で人気があったと記載されている。
話しは前後するが大正元年10月27日、伊都子は初めて飛行機を早朝から見に行っている。
 
六時ニ十分頃、ブー、ブーと音を立て、西北の方よりまざましき飛行機見えそめたれば、皆々全身とび立斗(たつばかり)よろこび、拍手したり。
 
初めて見る複葉機への興奮が書かれている。
ラジオの本放送は大正14年7月12日で、何事も新し好きの伊都子は早速ラジオを購入、当日の放送内容を簡単に記すと。
 
軍楽隊の君が代演奏、中村歌右衛門一派のラヂオ劇、近衛秀麿山田耕筰の音楽。
 
しかし、女性皇族は遊んでばかりいるわけではなく戦争があれば赤十字社の看護婦として働かねばならず全国の病院慰問、またはチャリティー、さらに皇族講話会など行事に暇はない。
 
因みに秩父宮妃勢津子様は伊都子の姪になる。
この本には多くの貴重な写真が掲載されているが実に興味深い。
大正天皇を初め、幼少の昭和天皇や今上陛下の誕生間もない写真。
また、伊都子妃は明治大帝の崩御に立ち会い大正天皇崩御に関してもこと細かに記述していて、皇族が書いた日記としては稀なるものではなかろうか。
 
勿論、関東の大震災や乃木将軍の殉死、第一次大戦満州事変、連盟脱退。
女性皇族から見た日露戦争から敗戦に至る経緯、空襲による各宮邸の全焼。
更には夫、守正王が皇族として唯ひとり戦犯として逮捕されるなど、まさに波瀾万丈の生涯であったことが随所に散見される。
追い打ちは思いも寄らぬ臣籍降下華族制度の廃止。
 
武家の娘として生まれ敗北後の覚悟もあったろうが日々の日記を綴ることで不安を鎮めていたのか本当に長い間、多岐にわたり書き続けられた貴重なもので後世に残すべき価値のある一冊だと切に思う。
 
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アルフレッド・ドレフュス「獄中日記」

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南米仏領ギニア・デヴィルズ島と聞いてピンときた!
映画『パピヨン』の舞台となった悪名高いあの島だ。
73年、スティーブ・マックイーン主演映画のラストシーンが蘇る。
ナポレオン3世第二帝政期、政治犯を収容した悪魔島で、終身禁固刑のドレフュス大尉はあの島に送られたのか。
 
思いも掛けず手に入れたこの本、ドレフュス事件で名高い本人が書いた「獄中日記」なるものがあるなど考えてもみなかった。
奥付を見ると昭和38年4月25日、筑摩書房発行とある。
かなり古いが出会ってしまっては止むおえず買うしかない。
 
今更ここでドレフュス事件を語る紙数もないが、1894年、フランス陸軍参謀本部付のユダヤ系フランス人アルフレッド・ドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕された冤罪事件で、その後、エミール・ゾラが大統領に公開質問状を出したことで19世紀末のフランス政界を揺るがす大事件になった。
日本では大佛次郎が昭和5年に事件を紹介したことで有名になったが、それを踏まえて以前、『ドレフュス事件エミール・ゾラ 』なる本を読んでみたが、あまり頭に入らなかった。
 
軍人にとっては最悪な国家反逆罪による逮捕。
しかも冤罪とあっては、悶死するほどの屈辱だったことだろう。
劣悪な環境の中での独房生活、最高気温は45度とある。
食料不足、急激な環境変化から起こる体調不良とストレス。
心臓発作、高熱、胃痙攣、水漏れ、虫の大群と私なら精神を病み、急激にやせ細り、自ら死を願うこと甚だしと思うがドレフュス大尉は違った。
 
陸軍大臣に再審請求を願い、ひたすら、自分を今日の環境へ陥れた真犯人の捜査を願ってやまず、更には、愛する妻と二人の子供の為に強靭なる精神で如何なる仕打ちにも耐えた。
 
本書には妻との往復書簡や日記が載っているが、固い絆と愛で何とかこの試練を乗り超えて行こうという強い決意が読み取れる。
だが手紙は常に検閲され、思うように届かないもどかしさと苛立ちも随所に見られる。
このような状況下では互いを励ますのは手紙だけ。
 
位階勲等、全てを剥奪され国家反逆罪の汚名を着せられ恥辱に塗れながら死ねるかという強い精神力あってこそ耐えることの出来た5年間であった。
妻の努力の甲斐あってか国内世論も一変し、晴れて汚名返上となるドレフュス大尉の奇跡の生還を物語る貴重な日記だが、この手の本は岩波文庫で復刊した方がよいと思うがどうだろう。
現在では読みたくとも読む手立てが失われている分、残念に思えてならない。
 
或は講談社の学術文庫でもいいではないか。
ひとつ、出版業界の人にご再考願ひたいものだ。
 
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滝田樗陰 - 『中央公論』名編集者の生涯 杉森久英

長い間の懸案がやっと解決したような気分だ。
あくまでも仮定の話しだが、もし私に文才あらば日本文壇史なるものを書きたいと永年、夢想して来たが、さて、肝心の主役は誰に据えるのか、一向に定まらぬまま月日だけを空費させて今日に至った。
暗中模索の数十年が過ぎ、そしてこの本に出合い滝田樗陰を主演抜擢と相定まった次第だ。
 
日露戦争あたりから樗陰の死までを大河小説風に書き上げ、それがNHK大河ドラマとして放映される。
さすれば、まさに我が世の春ではないか(笑
だが一つ不安がある、現在、滝田樗陰の知名度や如何に。
痛快無比なる樗陰の名を知らぬようでは視聴率は取れない。
この点には危惧の念を抱くが果てさて。
 
まあ、余談はさて置き、直木賞作家の杉森久英という人は40年程前から知ってはいたが、この本あることを今日まで知らなかった。
経歴をみるに勲三等瑞宝章菊池寛賞受賞とある。
 
既に1997年に他界しているが、この作家を有名足らしめたものはおそらく小説家島田清次郎の生涯を描いた『天才と狂人の間』という作品ではなかろうか。
そしてこの本「滝田樗陰 - 『中央公論』名編集者の生涯」は昭和41年の作とあるから凡そ半世紀ぶりの復刊ということになる。
著者は中央公論の社員だったらしいが入社したのは樗陰死後の昭和14年
もはや後輩にとって樗陰は伝説の人となっていた時代だ。
 
樗陰が廃刊寸前の中央公論に編集者として入社したのは明治37年、まだ23歳の学生で社長は麻田駒之助という人物。
以来、徳富蘇峰の水曜会や漱石の木曜会で揉まれ、その天才的な閃きで大正文壇最大の演出家に成長し、その権勢は留まることを知らず、彼の息の掛かった作家を列挙すると以下のようになる。
 
岩野抱鳴
里見弴
そして大正デモクラシーの本山、吉野作造など。
 
今日、樗陰の名は、その人力車と共に名高い。
樗陰定紋付の人力車が我が家の門前に止るということを、多くの作家が夢見ていた。
確か、菊池寛などはその日の喜びを何かに書いていたと記憶するが。
 
ところで、この本を読むまでは知らなかったが中央公論社は元々、西本願寺に属する若い僧侶たちの機関誌だったらしい。
即ち『反省会雑誌』なるものが起源だとか。
初代社長の麻田駒之助は室町時代から続く西本願寺の寺侍で宗門の意向には逆らえなず、絶大な権力を誇った大谷光瑞には特に忠誠を尽くしていたようだ。
 
しかし、社内分裂などもあり倒産寸前と思われた中央公論社で、樗陰が社長を説き伏せ小説を掲載することに拠って社運を立て直し、大出版会社へと上昇させるわけだが、宗門側の息のかかった社長は大の小説嫌い。
 
文藝というものは、軟弱かつ淫靡で、風俗を頽廃に導き道徳を腐食する根源である。
 
という評価。
負けずに樗陰は小説を載せれば必ず売れると麻田を説得、今日の中央公論があるは、まさに樗陰の手腕に拠るところが大きいわけだ。
それにしても二人の天才児、つまり大谷光瑞と滝田樗陰の関係性は面白そうだ。
宗派の総帥、その宗門からの離脱を求める樗陰を誰か小説に書けばいいのに。
そもそも小説家を目指していた樗陰に編集者の道を進めたのは近松秋江だった。
先に入社していた秋江が樗陰にある日、こう言った。
 
「君も少し名士を訪問しかたがた、原稿の依頼に行ってみませんか」
 
秋江は樗陰の明晰な頭脳と高邁な見識を評価し、編集に習熟させたら、得難い編集者になることを見抜いていた。
樗陰、最大の功績は社長麻田の反対を押し切って文芸欄を広げ、自らが乗り込んで、これはと思う作家に原稿を依頼してきたことにある。
著者は言う。
 
樗陰がいったん惚れ込んだ作家に対する熱中ぶりは独特のもので、彼は原稿を受け取ると、すぐその本人の前で読み、気にいった箇所があると、声を張り上げて朗誦してみせて、感激したという。
 
人を煽てることに優れた人物だったようだ。
しかし、好き嫌いも激しく、小山内薫が送って来た原稿が気に入らず、罵倒の手紙を添えて相手に突き返したり、当時、『人間』という小説を書いていた里見弴の原稿が遅く、なかなか届かないのに荒立った樗陰は以下のような電報を送りつけた。
 
ソレデモニンゲンカ
 
蘇峰と袂を分かち、漱石亡き後の樗陰の権勢は凄まじいもので、遠慮なく癇癪を破裂させ、高飛車に出ることも暫し。
それほど文壇デビューに於ける中央公論文芸欄編集者の立場は絶大だったのだろう。
載るも載らぬも樗陰の裁量次第。
作家にとっては死活問題だ。
これでは誰も歯が立たない。
 
やがて、吉野作造を招き中央公論大正デモクラシーの牙城となり、左翼の雄、山本実彦の『改造』と競うあたりは面白そうだ。
その山本実彦は書いている。
 
いつも同じ秀英社で左翼と右翼とにわかれて校正に従っていた滝田さんの死は私にとりて尤も思い出の多い一つである
 
しかし、それにしても樗陰の死は早過ぎた。
金に物を言わせ、暴飲暴食が祟り腎臓と喘息に悩まされた挙げくの死だった。
樗陰は書く。
 
三十年の昔おもへば訳もなくただ訳もなく涙し流る
 
見果てねどはた見あきねど我が夢は
 四十余年の夢多き日々
 
樗陰こと滝田哲太郎が死は大正14年10月27日。
まだ43歳の若さだった。
臨終に立ち会った父以久治の言葉が悲しい。
 
「なんと、哲。もうこれきりか。あわけねなあ」
 
あわけねなあ、とは秋田弁であっけないという意味らしい。
最後に次女春江さんの証言を是非載せておきたい。
 
学校に電話があり「お父さんの具合が悪いからすぐ帰るように」ということでした。
物音一つしない家の中、祖父と母がポツンと座って居ます。
祖父が「お父さん、とうとう駄目になった」と涙をこぼしました。
私は、床の上に寝ている父を見ました。それまでは、横になると胸苦しくなるからと、椅子にばかり腰掛けていた父です。「お父様」とその身体に抱きつきました。
泣けて泣けて、涙の止めようもありませんでした。
 
その光景が目に浮かぶようで物悲しい。
 
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