織田 作之助 昭和22年1月10日
横光 利一 昭和22年12月30日
菊池 寛 昭和23年3月6日
太宰 治 昭和23年6月13日
この時期、文壇はたった1年半年足らずの間に4人もの流行作家を亡くしている。
しかし今日、織田作、菊池 寛、太宰 治の再燃はあっても横光利一ブームなどは聞かない。
小林秀雄はこう言っている。
「小説では一流になったが人生で敗れた」
また、岸田國士はこうも言う。
「才能を裸のまま見せなければ承知しない日本の文壇の気風の中で、横光君は、華々しくはあったが、ずいぶん苦しい道を歩いた」
だが、白樺派とは肌が合わなかったようだ。
では、横光らが標榜した新感覚派とはどんな文学なのだろうか。
1925年の表現ではこうなる。
自然の外相を剥奪し、物自体に踊り込む主観の直感的触発物
さっぱり解らず。
何故か!
会話が合理的とは思えない。
一方的で冗舌に過ぎる。
情景描写が妙に長い。
川端と比べ、文体に美しさがない。
故に横光文学は滅んだのか・・・?
いや、その点は私みたいなものには分からない。
第一、私の好きな里見文学も現在では読まれていない。
両者が読める文庫は講談社文芸文庫と岩波だけだ。
これこそは自然淘汰ということになるのか。
さて、『上海』に付いても少し触れねばならぬ。
横光が上海に行くきっかけになったのは芥川の一言だったらしい。
しかし上海に降り立ったのは芥川の死後、昭和3年4月とある。
小説の題材は1925年に上海で起きた五・三〇事件。
「租界回収」をスローガンにした反日・反英運動の不穏な戦争前夜の国際都市上海の深い息づかいを伝えているわけだが、入り組んだ男女関係など、私個人は読み進めるのが大変だった。
白樺派じゃないが、どうもそりが合わない。
ただ、魔都上海が当時、如何に治安が悪かったかは少し分かったような気がする。
結局、私には馴染めなかった横光文学だが川端の弔辞は悲痛と慟哭が滲み出る名文だ。
横光君。ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭った。(略)
君の骨もまた国破れて砕けたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新たな同情を通わせ合い、再び行路を見守り合っていたが、君は東方の象徴の星のように卒(にわか)に光焔を発して落ちた。