長い間の懸案がやっと解決したような気分だ。
あくまでも仮定の話しだが、もし私に文才あらば日本文壇史なるものを書きたいと永年、夢想して来たが、さて、肝心の主役は誰に据えるのか、一向に定まらぬまま月日だけを空費させて今日に至った。
暗中模索の数十年が過ぎ、そしてこの本に出合い滝田樗陰を主演抜擢と相定まった次第だ。
さすれば、まさに我が世の春ではないか(笑
だが一つ不安がある、現在、滝田樗陰の知名度や如何に。
痛快無比なる樗陰の名を知らぬようでは視聴率は取れない。
この点には危惧の念を抱くが果てさて。
既に1997年に他界しているが、この作家を有名足らしめたものはおそらく小説家島田清次郎の生涯を描いた『天才と狂人の間』という作品ではなかろうか。
そしてこの本「滝田樗陰 - 『中央公論』名編集者の生涯」は昭和41年の作とあるから凡そ半世紀ぶりの復刊ということになる。
もはや後輩にとって樗陰は伝説の人となっていた時代だ。
岩野抱鳴
里見弴
今日、樗陰の名は、その人力車と共に名高い。
樗陰定紋付の人力車が我が家の門前に止るということを、多くの作家が夢見ていた。
確か、菊池寛などはその日の喜びを何かに書いていたと記憶するが。
即ち『反省会雑誌』なるものが起源だとか。
しかし、社内分裂などもあり倒産寸前と思われた中央公論社で、樗陰が社長を説き伏せ小説を掲載することに拠って社運を立て直し、大出版会社へと上昇させるわけだが、宗門側の息のかかった社長は大の小説嫌い。
文藝というものは、軟弱かつ淫靡で、風俗を頽廃に導き道徳を腐食する根源である。
という評価。
負けずに樗陰は小説を載せれば必ず売れると麻田を説得、今日の中央公論があるは、まさに樗陰の手腕に拠るところが大きいわけだ。
それにしても二人の天才児、つまり大谷光瑞と滝田樗陰の関係性は面白そうだ。
宗派の総帥、その宗門からの離脱を求める樗陰を誰か小説に書けばいいのに。
そもそも小説家を目指していた樗陰に編集者の道を進めたのは近松秋江だった。
先に入社していた秋江が樗陰にある日、こう言った。
「君も少し名士を訪問しかたがた、原稿の依頼に行ってみませんか」
秋江は樗陰の明晰な頭脳と高邁な見識を評価し、編集に習熟させたら、得難い編集者になることを見抜いていた。
樗陰、最大の功績は社長麻田の反対を押し切って文芸欄を広げ、自らが乗り込んで、これはと思う作家に原稿を依頼してきたことにある。
著者は言う。
樗陰がいったん惚れ込んだ作家に対する熱中ぶりは独特のもので、彼は原稿を受け取ると、すぐその本人の前で読み、気にいった箇所があると、声を張り上げて朗誦してみせて、感激したという。
人を煽てることに優れた人物だったようだ。
しかし、好き嫌いも激しく、小山内薫が送って来た原稿が気に入らず、罵倒の手紙を添えて相手に突き返したり、当時、『人間』という小説を書いていた里見弴の原稿が遅く、なかなか届かないのに荒立った樗陰は以下のような電報を送りつけた。
ソレデモニンゲンカ
蘇峰と袂を分かち、漱石亡き後の樗陰の権勢は凄まじいもので、遠慮なく癇癪を破裂させ、高飛車に出ることも暫し。
それほど文壇デビューに於ける中央公論文芸欄編集者の立場は絶大だったのだろう。
載るも載らぬも樗陰の裁量次第。
作家にとっては死活問題だ。
これでは誰も歯が立たない。
その山本実彦は書いている。
いつも同じ秀英社で左翼と右翼とにわかれて校正に従っていた滝田さんの死は私にとりて尤も思い出の多い一つである
しかし、それにしても樗陰の死は早過ぎた。
金に物を言わせ、暴飲暴食が祟り腎臓と喘息に悩まされた挙げくの死だった。
樗陰は書く。
三十年の昔おもへば訳もなくただ訳もなく涙し流る
見果てねどはた見あきねど我が夢は
四十余年の夢多き日々
樗陰こと滝田哲太郎が死は大正14年10月27日。
まだ43歳の若さだった。
臨終に立ち会った父以久治の言葉が悲しい。
「なんと、哲。もうこれきりか。あわけねなあ」
あわけねなあ、とは秋田弁であっけないという意味らしい。
最後に次女春江さんの証言を是非載せておきたい。
学校に電話があり「お父さんの具合が悪いからすぐ帰るように」ということでした。
物音一つしない家の中、祖父と母がポツンと座って居ます。
祖父が「お父さん、とうとう駄目になった」と涙をこぼしました。
私は、床の上に寝ている父を見ました。それまでは、横になると胸苦しくなるからと、椅子にばかり腰掛けていた父です。「お父様」とその身体に抱きつきました。
泣けて泣けて、涙の止めようもありませんでした。
その光景が目に浮かぶようで物悲しい。