愛に恋

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辻潤の愛 小島キヨの生涯 倉橋健一

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大正時代、新宿で中村屋というパン屋を営んでいたといえば相馬黒光夫妻のことだが、その相馬夫婦に支援を受けていた夭折の天才画家が中村彝(つね)である。
中村の代表作は盲目のロシア人を描いた『エロシェンコ像』だが、彼もまた相馬夫婦の支援を受けていた縁で中村はエロシェンコを知ったのだろう。
他の作品では相馬夫婦の娘俊子の裸体画などを描いているが、どうも二人の間は男と女の関係にあったようだが結婚には至らなかった。
 
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その中村が結核で体力が著しく低下していく大正9年頃、描いていたのが、この『椅子によれる女』だが、モデルは小島キヨ。
作家に憧れて上京したキヨは当時18歳。
ルノアールを崇拝していた中村の目に留まったキヨは当時としては珍しく大柄で豊満な肉体で、中村としては理想のモデルだったのかも知れない。
 
しかし、今回、私が追い求めているのはモデル小島キヨではなく、辻潤の妻、小島キヨなのである。
辻潤、つまり世間で言われるところのダダイスト辻潤である。
大正デカダンスを地で行くような、酒と女と尺八、そして究極の餓死。
強烈な個性の辻を愛した小島キヨとは如何な女性であったのか。
 
辻の先妻は憲兵隊に殺害された、あの伊藤野枝だが、野枝が辻の下を去った原因は谷中村の足尾銅山事件で、事件に興味を示さない辻に愛想を尽かしたものと思われる。
それが大正5年頃のことではないだろうか。
その二人の遺児が後年自殺した画家の辻まことというわけだ。
 
さて、キヨが辻潤を知ったのは大正11年7月1日とある。
労働同盟会主催の思想講習会に出かけて行き、そこで知り合ったらしいが、以来、二人はただれた関係を結ぶように交際を続け、長男秋生をもうけるが、辻の生活態度が荒れだしたのは震災で伊藤野枝殺害の報を聞いたころからか、連日、仲間内で集まっては酔って乱闘騒ぎを繰り返し、居場所も定まらず、定収入もないまま、酒を求め女を求め乱闘に明け暮れる。
 
時に全国行脚ならぬ虚無僧のような恰好をして尺八を吹きながら人家の前に立ち、強いては精神異常で病院への入院。
大正の末期は一定の職業を持たない知的労働者が溢れた時代で、彼等は下宿から下宿へ転々と居所を変え、それでも何とか生きていける時代だったらしい。
が、肝心のキヨ本人も大の酒好きで金も飯もないまま仲間と管を巻いては酒浸りの日々を過ごしていたとあるから、一体、みんなはどうやって生活しているのだと訝しむ。
 
そんなキヨを悩ませたのは辻の女狂い。
そして連日、酔っては議論し歌い踊り喧嘩となりキリがない。
一体、辻潤とはどのような人だったのか。
彼はこんなことを書いている。
 
「耶蘇は小便をしても手を洗わなかったり、酒を呑んだり、淫売と交際したり、漁師と友達だったり、したということであるが、僕も実に交遊天下に普く、虫の好く人間ならその境遇と職業と主義と人格と美醜と賢愚と貧富とエトセトラの如何を論ぜず友達になる。だから、僕の交遊の種類はまことに千差万別で、僕はどうやら社会の職業は文士であるようではあるが、文士や芸術家以外に職人、役者、商人、相場師、落語家、娼婦、社会主義者、船乗り、アナキスト、坊主、女工、芸者、その他なんでもござれである」
 
つまり、誰とでも話せ仲良くなったと言っているわけだ。
しかし、結局は乞食行脚となり昭和19年11月24日、アパートで餓死しているところを見つかった。
辻と別れ、仲間内の玉生(たまにう)謙太郎と再婚したキヨは相変わらずの極貧生活で子供を出産。
 
戦後、辻との間にもうけた秋生がフィリピンで戦死したという公報も届き、辻とキヨの関係をどう解釈したらいいのか読了してからもよく解らなかった。
酒と女に溺れていく辻を諦め切れなかったキヨ。
自らも酒と男で孤独を紛らわしていく極貧生活。
辻潤という男をどう見たらいいのか。
先妻は殺され、後妻はアル中、自らは餓死。
枝との子供は自殺、キヨとの子供は戦死。
近代史に名を残したはいいが、それにしては悲惨な最期。
私には出来ない生き方だ。
 
この本は、残されたキヨの日記を元に書かれているが貧困を抜けきれないまま生涯を閉じたキヨにとって何が幸福だったのか。
しかし、アル中の割には78歳まで生き、こうして本に書かれる存在でもある。
それが唯一の慰めか。
 
 
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